柴桑
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それをどんどん鄱陽湖にあつめ、周瑜が水軍大都督となって、猛演習をつづけている。 孫権自身もまた、それに晏如としてはいなかった。叔父の孫静に呉会を守らせて、鄱陽湖に近い柴桑郡(江西省・九江西南)にまで営をすすめていた。 その頃。 玄徳は新野にあって、すでに孔明を迎え、彼も将来の計にたいして、準備おさおさ怠りない時であった。
彼は呉へ檄を送ると同時に、その実力を水陸から南方へ展開した。 総勢八十三万の兵を、号して百万ととなえ、西は荊陜から東は※黄にわたる三百里のあいだ、烟火連々と陣線をひいて、呉の境を威圧した。 この時、呉主孫権も、隣境の変に万一あるをおそれて、柴桑城(廬山、鄱陽湖の東南方)まで来ていたが、事態いよいよただならぬ形勢となったので、 。「今こそ、呉の態度を迫られる時が来た。曹操についたが得策か、玄徳と結んだがよいか。
長江千里、夜が明けても日が暮れても、江岸の風景は何の変化もない。水は黄色く、ただ滔々淙々と舷を洗う音のみ耳につく。 船は夜昼なく、呉の北端、柴桑郡をさして下っている。――その途中、魯粛はひそかにこう考えた。「痩せても枯れても、玄徳は一方の勢力にちがいない。
なぜ今日までそれに気がつかなかったのだろう」 。 たちまち彼は一書を認めた。心ききたる一名の大将にそれを持たせ、柴桑からほど遠からぬ鄱陽湖へ急がせた。水軍都督周瑜はいまそこにあって、日々水夫軍船の調練にあたっていた。
しかし、彼の任は政治になく、水軍の建設とその猛練習にある。――今日も彼は、舟手の訓練を閲して、湖畔の官邸へひきあげて来ると、そこへ孫権からの早馬が来て、 。「すぐさま柴桑城までお出向きください。国君のお召しです」 。 と、権の直書を手渡して帰って行った。
一。 柴桑城の大堂には、暁天、早くも文武の諸将が整列して、呉主孫権の出座を迎えていた。 夜来、幾度か早馬があって、鄱陽湖の周瑜は、未明に自邸を立ち、早朝登城して、今日の大評議に臨むであろうと、前触れがきているからである。 やがて、真っ赤な朝陽が、城頭の東に雲を破って、人々の面にも照り映えて見えた頃、 。
その大船の艫には、「帥」の字を大きく書いた旗を立て、弩千張と黄鉞銀鎗を舷側にたてならべ、彼は将台に坐し、水陸の諸大将すべて一船に集まって、旺なる江上の宴を催した。 大江の水は、素絹を引いたように、月光にかすんでいた。――南は遠く呉の柴桑山から樊山をのぞみ、北に烏林の峰、西の夏口の入江までが、杯の中にあるような心地だった。「ああ楽しいかな、男児の業。眸は四遠の地景をほしいままにし、胸には天空の月影を汲む。