樊城
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一。 樊城の包囲は完成した。水も漏らさぬ布陣である。関羽はその中軍に坐し、夜中ひんぴんと報じてくる注進を聞いていた。
そして黙って見ていると、単福は練兵調馬の指揮にあたるや、さながら自分の手足を動かすように自在で、しかも精神的にこれを鍛錬し、科学的に装備してゆくので、新野の軍隊は小勢ながら目立って良くなってきた。 この日頃――曹操はもう北征の業をひとまず終って、都へ帰っていたが、ひそかに次の備えとして、荊州方面をうかがっていた。 その瀬ぶみとして、一族の曹仁を大将とし、李典、呂曠、呂翔の三将をそえて、樊城へ進出を試み、――そこを拠点として、襄陽、荊州地方へ、ぼつぼつ越境行為を敢てやらせていた。「いま、新野...
一。 樊城へ逃げ帰った残兵は、口々に敗戦の始末を訴えた。しかも呂曠、呂翔の二大将は、いくら待っても城へ帰ってこなかった。 すると程経てから、 。
「いまにして、荊州も取り給わず遅疑逡巡、曹操の来攻を、拱手してここに見ているおつもりですか」と、ほとんど、玄徳の戦意を疑うばかりな語気で詰問った。「ぜひもない……」と、玄徳は独りでそこに考えをきめてしまっているもののように―― 。「この上は新野を捨てて、樊城へ避けるしかあるまい」と、いった。 ところへ、早馬が来て、城内へ告げた。曹操の大軍百万の先鋒はすでに博望坡まで迫ってきたというのである。
孔明は、命を下して、 。「船をみな焼き捨てろ」と、いった。 そして、無事、樊城へ入った。 この大敗北は、やがて宛城にいる曹操の耳に達した。曹操は、すべてが孔明の指揮にあったという敗因を聞いて、 。
中漢九郡のうち、すでに四郡は彼の手に収められた。ここに玄徳の地盤はまだ狭小ながら初めて一礎石を据えたものといっていい。 魏の夏侯惇は、襄陽から追い落されて、樊城へ引籠った。 彼についてそこへ行かずに、身を転じて、玄徳の勢力に附属して来る者も多かった。 玄徳はまた北岸の要地油江口を公安と改めて、一城を築き、ここに軍需品や金銀を貯えて、北面魏をうかがい、南面呉にそなえた。
いまその蜀呉合作を未然に打破して、蜀を孤立させただけでも、大いなる成功であるとなし、呉の附帯条件も、文句なしに容れたものと思われる。 呉から提示していた条件というのは、もちろん魏の即時荊州進攻の実行にある。曹操は、調印直後、満寵を樊川軍参謀に任じ、曹仁のいる前線拠地――樊城へ派遣して、彼を扶けさせた。 蜀はこの間に、もっぱら内治と対外的な防禦に専念し、漢中王玄徳は、成都に宮室を造営し、百官の職制を立て、成都から白水(四川省広元県西北。蜀の北境)まで四百余里という道中の次々には駅舎を設け、官の...