武昌
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建安八年の十一月ごろ。 孫権は、出征の要に迫られた。荊州の配下、江夏(湖北省・武昌)の城にある黄祖を攻めるためだった。 兵船をそろえ、兵を満載して、呉軍は長江をさかのぼってゆく。 その軍容はまさに、呉にのみ見られる壮観であった。
また諸所の道にかかる落人どもの馬具、物具なども余すなく鹵獲せよ」と、いいつける。 また、劉琦に向っては、 。「武昌は、緊要の地、君かならず守りを離れたもうなかれ。ただ江辺を固め、逃げくる敵あらば、捕虜として味方に加えられい」 。 最後に、玄徳を誘って、 。
すなわち彼もまた、魏や蜀にならって、皇帝を僭称したのである。 四月。武昌の南郊に盛大な壇をきずいて、大礼の式典を行い、天下に大赦を令し、即日、黄武八年の年号を、黄龍元年とあらため、先王孫堅に対しては、武烈皇帝と諡して、ここに、呉皇帝の即位は終った。 嫡子の孫登ももちろん同時に皇太子にのぼった。そしてその輔育の任には、諸葛瑾の子諸葛恪を太子左輔とし、張昭の子張休が太子右弼を命ぜられた。