汝南
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見ればその人は、貌相魁偉胸ひろく双肩威風をたたえ、武芸抜群の勇将とは見られた。 これなん、漢の司徒袁安が孫、袁逢が子、袁紹であった。袁紹字は本初といい、汝南汝陽(河南省・淮河上流の北岸)の名門で門下に多数の吏事武将を輩出し、彼も現在は漢室の司隷校尉の職にあった。 袁紹は、昂然とのべた。「願わくば自分に精兵五千を授け給え。
「しかし、食糧もない飢饉の土地に、しがみついているのも、良策ではあるまいが」 。「さればです。――今日の策としては、東の地方、汝南(河南省・汝南)から潁州の一帯で、兵馬を養っておくことです。あの地方にはなお、黄巾の残党どもが多くいますが、その草賊を討って、賊の糧食を奪い、味方の兵を肥やしてゆけば、朝廷に聞えもよく、百姓も歓迎しましょう。これが一石二鳥というものです」 。
一銭を盗めば賊といわれるが、一国を奪れば、英雄と称せられる。 当時、長安の中央政府もいいかげんなものに違いなかったが、世の中の毀誉褒貶もまたおかしなものである。 曹操は、自分の根城だった兗州を失地し、その上、いなご飢饉の厄にも遭いなどして、ぜひなく汝南、潁川方面まで遠征して地方の草賊を相手に、いわゆる伐り奪り横行をやって苦境をしのいでいたが、その由、長安の都へ聞えると、朝廷から、 。(乱賊を鎮定して、地方の平穏につくした功によって、建徳将軍費亭侯に封じ給う) 。 と、嘉賞の沙汰を賜わった。
「如何なる素姓の者か」と、たずねた。「はっ、或いはなお、ご記憶にありはせぬかと存じますが。――自分はかつて、黄巾賊の乱にもいささか功をたて、一時は鎮威中郎将の栄職にありましたが、その後、思うところあって、故郷汝南に帰っていました。――李通字を文達と申す者であります」 。 旧交はないが、夙に名は聞いている。
その折、彼は諸人の中で、 。「延津の戦では、予がわざと兵糧隊を先陣につけて敵を釣る計略を用いたが、あれを覚っていたのは荀攸だけだった。しかし荀攸も口の軽いのはいけない」と思い出ばなしなど持ちだして大いににぎわっていたが、そこへ汝南(河南省)から早馬が到来して一つの変を報じた。 汝南には前から劉辟、龔都という二匪賊がいた。もと黄巾の残党である。
そうした幾日目かである。 彼方からひとりの騎馬の旅客が近づいてきた。見れば何と、汝南で別れたきりの孫乾ではないか。 互いに奇遇を祝して、まず関羽からたずねた。「かねての約束、どこかでお迎えがあろうと、ここへ参るまでも案じていたが、さてかく手間どったのはどうしたわけです」 。
やむなく裴元紹は手下をまとめて、山寨へひきあげた。 周倉は本望をとげて、山また山の道を、身を粉にして先に立ち、車を推しすすめて行った。 ほどなく、目的の汝南に近い境まで来た。 その日、一行はふと、彼方の嶮しい山の中腹に、一つの古城を見出した。白雲はその望楼や石門をゆるやかにめぐっていた。