江北
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「江北」登場回数
合計: 26回「江北」が登場する場面
7件この一戦
一。 その後、蜀の大軍は、白帝城もあふるるばかり駐屯していたが、あえて発せず、おもむろに英気を練って、ひたすら南方と江北の動静をうかがっていた。 ときに諜報があって、 。「呉は魏へ急遽援軍を求めたらしいが、魏はただ呉王の位を孫権へ贈ったのみで、曹丕の態度は依然、中立を固持しています」と、伝えてきた。
一掴三城
酒、数巡。 玄徳は杯をあげて、しきりに、赤壁の大勝を激賞しながら、 。「ときに、引続いて、江北へご進撃と承り、いささか戦いのお手助けを申さんと、急遽、この油江口まで陣を進めて来ましたが、もし周都督のほうで、南郡をお取りになるご意志がなければ、玄徳の手をもって、攻め取りますが」と、軽くいった。 すると、周瑜も、気軽に笑って、戯れた。「どう致しまして――。
功なき関羽
× × × 。 数万人の捕虜は、赤壁から呉へ運ばれて行った。 呉軍は、そのすべてを包有して、一躍大軍となり、また整備を増強して、江北へ押し渡って来た。「玄徳から賀使が見えました。家臣の孫乾という者が、贈り物を献じ、戦勝のお祝いを述べるためにと――玄徳の使いで」 。
大号令
しかも、そのことはまた、忠の根本とも合致するでしょう。どうか、末節の小義にとらわれず、忠孝の大本にかえって下さい。われわれ兄弟の父母の墳は、みな江北にあって江南にはありません。他日、朝廷の逆臣を排し、劉玄徳の君をして、真に漢朝を守り立てしめ、そして兄弟打揃うて故郷の父母の墳を清掃することができたら、人生の至楽はいかばかりでしょう。――よもや世人も、その時は、諸葛の兄弟は伯夷叔斉に対して恥じるものだともいいますまい」 。
孔明を呼ぶ
大功を立つるは今ぞ」 。 魏帝曹丕が督戦に臨んだ陣もまさにここであった。――で、魏の士気はいやがうえにも振い、江北江東の天、ために晦冥、戦気紅日を蔽い、殺気地軸をゆるがした。 ときに、濡須の守りに当った呉の大将は、年まだ二十七歳の朱桓であった。 朱桓は若いが胆量のある人だった。
建業会議
建業城中の評議はなかなか一決しない。呉にとっても重大な岐路である。のみならず呉はひそかに先頃から魏の繁忙をうかがって、このときに江北の徐州を奪ってしまうべきでないかと考えていた所である。――が、曹操から内示してきた条件もなかなかいい。(関羽を攻めて荊州を奪らんか。
建艦総力
孫権の甥にあたる若い将軍で、孫韶字を公礼という青年だった。 この孫韶は、持論として、 。「一刻もはやく、軍馬をそろえて、江北へ渡り、魏の水軍を淮南(河南・淮水の南岸)で撃破すべきだ。国防国防と騒いで、空しく敵を待っていては、いまに魏の大軍がこれへ上陸した場合、国中の人民が震動して、収拾つかない結果になろう」ということを常に主張していた。 徐盛は大反対で、 。