江岸
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「時なるかな。」と、孫権は手を打ってよろこんだ。「いま、黄祖を討つ計を議するところへ、甘寧が数百人を率いて、わが領土へ亡命してきたのは、これ潮満ちて江岸の草のそよぐにも似たり――というべきか、天の時がきたのだ。黄祖を亡ぼす前兆だ。すぐ、甘寧を呼び寄せい」 。
五。 黎明と共に、出陣の鼓は鳴った。長沙の大兵は、城門から江岸へあふれ、軍船五百余艘、舳艫をそろえて揚子江へ出た。 孫堅は、長男の孫策が、すでに夜の明けないうち、十艘ばかり兵船を率いて、先駆けしたと聞いて、「頼もしいやつ」と、口には大いにその健気さを賞したが、心には初陣の愛児の身に万一の不慮を案じて、 。「孫策を討たすな」と、急ぎに急いで、敵の鄧城へ向った。
さて、そこで。 孫策が、第一の敵として、狙いをつけたのは叔父呉を苦しめた楊州の刺史劉繇である。 劉繇は、揚子江岸の豪族であり、名家である。 血は漢室のながれを汲み、兗州の刺史劉岱は、彼の兄にあたる者だし、太尉劉寵は、伯父である。 そして今、大江の流れに臨む寿春(江西省・九江)にあって、その部下には、雄将が多かった。
この上は、故郷の黄県東莱へひそんで、再び時節を待とう。 そう心に決めたか。 なおやまない疾風と乱箭の闇を馳けて、江岸のほうへ急いだ。 すると後ろから、 。「太史慈をにがすな。
荊州の劉表(湖北・湖南を領す。州治は襄陽)は、諸国に割拠する群雄のうちでも、たしかに群を抜いた一方の雄藩であった。 第一には、江岸の肥沃な地にめぐまれていたし、兵馬は強大だし、かつては江東の孫策の父孫堅すら、その領土へ侵入しては、惨敗の果てその身も戦死をとげ、恨み多き哀碑を建てて、いたずらに彼を誇らせたほどな地である。 ――で、当然のように。 曹操から派遣された誘降の使者は、劉表の一笑に会って、まるで対手にもされず追い返されてしまったのである。
渡船をさがして対岸へ着き、ここは何処かと土地の名を漁夫に訊くと、 。「漢江(湖北省)でございます」と、いう。 その漁夫が知らせたのであろう、江岸の小さい町や田の家から、 。「劉皇叔様へ――」と、羊の肉や酒や野菜などをたくさん持ってきて献じた。 一同は河砂のうえに坐って、その酒を酌み、肉を割いた。
彼らは、おのおの、選ぶ土地に居を求めて、そこで必然、新しい社会を形成し、新しい文化を建設して行った。 その分布は。 南方の沿海、江蘇方面から、安徽、浙江におよび、江岸の荊州(湖南、湖北)より、さらにさかのぼって益州(四川省)にまでちらかった。 継母をつれた諸葛瑾が、呉の将来に嘱目して、江を南へ下ったのは、さすがに知識ある青年の選んだ方向といっていい。 そして、やがてそれから七年目。