河間
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何后、何進の一族は、 。「邪魔ものは董太后である」 。 と、悪策をめぐらして、太后を河間(河北省・河間県)という片田舎へ遷してしまった。 故霊帝の母公たる董太后も、今は彼らの勢力に拒む力もなかった。これというのも、前帝の寵妃だった王美人の生んだ協皇子を愛するのあまり、何后、何進らの一族から睨まれた結果と――ぜひなき運命の輦のうちに涙にくれながら都離れた地方へ送られて行った。
崔琰は乱雑な民簿をよく統計整理して、曹操の軍政経済の資に供えた。 曹操は、彼を別駕従事の官職に封じ、一面、袁紹の子息や冀州の残党が落ちのびて行った先の消息も怠らず探らせていた。 その後、長男の袁譚は、甘陵、安平、渤海、河間(河北省)などの諸地方を荒らして、追々、兵力をあつめ、三男袁尚が中山(河北省・保定)にいたのを攻めて、これを奪った。 袁尚は中山から逃げて、幽州へ去った。ここに二男袁煕がいたので、二弟合流して長兄を防ぐ一面、 。