淮南
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ひそかに誓う大志を若い胸に秘めて、国々の人情、地理、兵備などを見て歩いた。いわゆる武者修行の辛酸をつぶさになめて遍歴したのである。 そして、二年ほど前から、淮南に足をとめて、寿春城の袁術の門に、食客として養われていた。 袁術と、亡父孫堅とは、交わりのあった仲であるのみならず、孫堅が劉表と戦って、曲阿の地で討死したのも――まったく袁術の使嗾があの合戦の動機でもあったから、――袁術も同情して、 。「わが手許におるがよい」と、特にひきとめて、子の如く愛していたのであった。
の位置は、確固たるものになった。 諸将を分けて、各地の要害を守らせる一方、ひろく賢才をあつめて、善政を布いた。やがてまた、朝廷に表を捧げて、中央の曹操と親交をむすぶなど、外交的にも進出するかたわら、かつて身を寄せていた淮南の袁術へ、 。「爾来、ごぶさたをいたしていましたが」 。 と、久しぶりに消息を送って、さて、その使者をもって、こういわせた。
紀霊は、呂布を恐れた。 何だか呂布に一ぱい喰わされた気もするが、彼の太い神経には、まったく圧服されてしまった。 やむなく紀霊は、兵を退いて、淮南へ帰った。 彼の口から、仔細を聞いて、嚇怒したのは、袁術であった。「彼奴。
と、横なぐりに、払ったが、わずかに、馬のたてがみへ、袁術が首をちぢめたため、刃はその盔にしか触れなかった。 しかし、自称皇帝の増長の冠は、ために、彼の頭を離れ、いびつになったまま素ッ飛んだ。 こうして袁術はさんざんな敗北を喫し、紀霊を殿軍にのこして、辛くも、生命をたもって淮南へ帰った。 それに反して、呂布は、ぞんぶんに残敵の剿滅を行い、意気揚々、徐州へひきあげて、盛大なる凱旋祝賀会を催した。「こんどの戦で、かくわれをして幸いせしめたものは、第一に陳珪父子の功労である。
一。「袁術先生、予のてがみを読んで、どんな顔をしたろう」 。 淮南の使いを追い返したあとで、孫策はひとりおかしがっていた。 しかし、また一方、 。「かならず怒り立って、攻め襲うて来るにちがいない」 。
「ことしもまた、西へ征旅に赴かねばなりますまい」 。 と、いった。 南の淮南は、去年、一年たたきに叩いて、やや小康を保っている。 西といえば、さし当って、近ごろ南陽(河南省・南陽)から荊州地方に蠢動している張繍がすぐ思い出される。 果たせるかな。
と、指を折って説かれるまでもなく、曹操自身も、 。「自分のほうがはるかに人間は上である」と、充分自信はもっているが、単にそれだけを強味として相手を鵜呑みにしてしまうわけにもゆかなかった。 袁一門の閥族中には、淮南の袁術のような者もいるし、大国だけに賢士を養い、計謀の器、智勇の良臣も少なくない。 それに、何といっても彼は名家の顕門で、いわば国の元老にも擬せられる家柄であるが、曹操は一宮内官の子で、しかもその父は早くから郷土に退き、その子曹操は少年から村の不良児といわれていた者にすぎない。 ...