淮水
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許都を立つに先だって、もちろん曹操は予州の劉備玄徳へも、徐州の呂布へも、参戦の誘文を発しておいた。秋天将にたかし。われ淮水に向って南下す。乞う途上に会同せられよ。 檄によって劉玄徳は、関羽張飛などの精猛をひきつれて、予州の境で待ちあわせていた。
と、許容あって、立ちどころに大々的脱出の手配にかかった。 李豊、楽就、陳紀、梁剛の四大将は、あとに残って、寿春を守ることになり、これに属する兵はおよそ十万。 また、袁術とその眷族に従って、城を出てゆく本軍側には、将士二十四万人が附随し、府庫宮倉の金銀珍宝はいうまでもなく、軍需の貨物や文書官冊などもみな、昼夜、車につんで陸続と搬出し、これを淮水の岸からどしどし船積みして何処ともなく運び去った。 袁術も、扈従の臣も、もちろんいちはやく、淮水の彼方へ渡って、遠く難を避けてしまった。 残るはただ満...
龍骨の長さ二十余丈、兵二千余人をのせることができる。これを龍艦と呼び、十数隻の進水を終ると、魏の黄初五年秋八月、他の艦艇三千余艘を加えて、さながら「浮かべる長城」のごとく呉へ下った。 水路は長江によらず、蔡・潁から湖北の淮水へ出て、寿春、広陵にいたり、ここに揚子江をさしはさんで呉の水軍と大江上戦を決し、直ちに対岸南徐へ、敵前上陸して、建業へ迫るという作戦の進路を選んだのであった。 一族の曹真は、このときも先鋒に当り、張遼、張郃、文聘、徐晃などの老巧な諸大将がそれを輔佐し、許褚、呂虔などは中軍...
要するにこれは、呉の徐盛が、江上から見えるあらゆる防禦施設に、すべて草木や布をおおいかぶせ、或いは住民をほかへ移し、或いは城廓には迷彩をほどこしたりして、まったく敵の目をくらましていたのだった。そして曹丕の旗艦以下、魏の全艦隊が、いまや淮河の隘路から長江へと出てくる気配を見たので、一夜に沿岸全部の偽装をかなぐり捨て、敢然、決戦態勢を示したものである。「彼にこの信念と用意がある以上、いかなる謀があるやも測り難い」と、曹丕はにわかに下知して、淮水の港へ引っ返そうとしたところ、運悪くせまい河口の...