淮河
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見ればその人は、貌相魁偉胸ひろく双肩威風をたたえ、武芸抜群の勇将とは見られた。 これなん、漢の司徒袁安が孫、袁逢が子、袁紹であった。袁紹字は本初といい、汝南汝陽(河南省・淮河上流の北岸)の名門で門下に多数の吏事武将を輩出し、彼も現在は漢室の司隷校尉の職にあった。 袁紹は、昂然とのべた。「願わくば自分に精兵五千を授け給え。
「ああ、くたびれた」と、中腹の岩に腰かけて、荘厳なる落日の紅雲をながめていた。 袁術の州府寿春城から淮南一帯の町々や部落は、目の下に指される。 ――うねうねとそこを流れている一水は淮河の流れである。 淮河は狭い。 大江の流域からくらべれば比較にならないほどである。
守将の李豊以下ほとんど斬り殺されるか生擒られてしまい、自称皇帝の建てた偽宮――禁門朱楼、殿舎碧閣、ことごとく火をかけられて、寿春城中、いちめんの大紅蓮と化し終った。「息もつくな。すぐ船、筏をととのえて、淮河をわたり、袁術を追って、最後のとどめを与えるのだ」 。 将領たちを督励して、さらに、追撃の準備をしている数日の間に、 。「荊州の劉表が、さきの張繍と結託して、不穏な気勢をあげている――」 。
曹丕は思わず長嘆を発して、敵ながら見事よと賞めたたえた。 要するにこれは、呉の徐盛が、江上から見えるあらゆる防禦施設に、すべて草木や布をおおいかぶせ、或いは住民をほかへ移し、或いは城廓には迷彩をほどこしたりして、まったく敵の目をくらましていたのだった。そして曹丕の旗艦以下、魏の全艦隊が、いまや淮河の隘路から長江へと出てくる気配を見たので、一夜に沿岸全部の偽装をかなぐり捨て、敢然、決戦態勢を示したものである。「彼にこの信念と用意がある以上、いかなる謀があるやも測り難い」と、曹丕はにわかに下知...
一。 壮図むなしく曹丕が引き揚げてから数日の後、淮河一帯をながめると縹渺として見渡すかぎりのものは、焼け野原となった両岸の芦萱と、燃え沈んだ巨船や小艇の残骸と、そして油ぎった水面になお限りなく漂っている魏兵の死骸だけであった。 実にこのときの魏の損害は、かつて曹操時代にうけた赤壁の大敗にも劣らないものであった。ことに人的損傷はその三分の一以上に及んだであろうといわれ、航行不能になって捨てていった船や兵糧や武具など、呉の鹵獲は莫大な数字にのぼり、わけても大捷の快を叫ばせたものは、 。