清新
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一。 江南江東八十一州は、今や、時代の人、孫策の治めるところとなった。兵は強く、地味は肥沃、文化は溌剌と清新を呈してきて、 。 小覇王孫郎 。 の位置は、確固たるものになった。
この当時である。曹操は大いに職制改革をやっていた。つねに内政の清新をはかり、有能な人物はどしどし登用して、閣僚の強化につとめ、 。(事あれば、いつでも)という、いわゆる臨戦態勢をととのえていた。 毛玠が東曹掾に任じられ、崔琰が西曹掾に挙げられたのもこの頃である。
連年の出師に兵のつかれも思われたので、今度は全軍をふたつに分けて、一半を以て、漢中にのこし、一半を以て、祁山へ進発した。そしてこれの戦場にある期間を約三月と定め、百日交代の制を立てた。――要するに百日ごとに、二軍日月のごとく戦場に入れ代って絶えず清新な士気を保って魏の大軍を砕かんとしたものである。 蜀の建興九年は、魏の太和五年にあたる。この春の二月、またも急は洛陽の人心へ伝えられ、魏帝はさっそく力と恃む司馬懿仲達を招いて、 。