渭水
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」 。「張飛は、近頃また、持ち前の狂躁病が起っておるらしいな」と、玄徳は、叱って、 。「むかし、周の文王が、渭水に行って、太公望をたずねたとき、太公望は釣糸を垂れていて、かえりみもしなかった。文王はそのうしろにたったまま、釣を邪げず、日の暮れるまで待っていたという。――太公望もその志に感じ、ついに文王を佐ける気になって、その功はやがて、周代八百年の基を開いたのである。
ひとり徐晃は進んで、忌憚なく答えた。「このまま、潼関の敵と睨みあいしていたら、一年たっても勝敗は決しますまい。それがしが考えるには、渭水の上流下流は、さしもの敵も手薄でしょうから、一手は西の蒲浦を渡り、また丞相は河の北から大挙して越えられれば、敵は前後を顧みるにいとまなく、陣を乱して潰滅を早めるにちがいないと思いますが……」 。「徐晃の説は大いに良い」 。 曹操は賞めて、 。
一。 渭水は大河だが、水は浅く、流れは無数にわかれ、河原が多く、瀬は早い。 所によって、深い淵もあるが、浅瀬は馬でも渡れるし、徒渉もできる。 ここを挟んで、曹操は、北の平野に、野陣を布いて、西涼軍と対していたが、夜襲朝討ちの不安は絶え間がない。
君ト予トハ元ヨリ仇デハナク、君ノ厳父ハ、予ノ先輩デアリ、長ジテハ、君ト知ッテ、史ヲ語リ、兵ヲ談ジ、天下ノ為、大イニ成スアランコトヲ、誓イアッタ友ダッタ。端ナクモ、過グル頃ヨリ敵味方トワカレ、矢石ノアイダニ別ルルモ、旧情ハ一日トテ、忘レタコトハナイ。イマ幸イニ、和議成ッテ、予ナオ数日、渭水ノ陣ニアリ。乞ウ、一日、旧友韓遂トシテ来リ給エ。「ああ、彼も、忘れずにいるか」 。
の計に成功したものといえる。 味方割れ、同時に、和睦の決裂だ。――馬超は、自らつけた火と、自ら招いた禍いの兵におわれて、辛くも、渭水の仮橋まで逃げのびて来た。 かえりみると、龐徳、馬岱ともちりぢりになり、つき従う兵といえば、わずか百騎に足らなかった。「やあ、あれに来るは、李湛ではないか」 。
張松は口を曲げて答えた。「聞説。魏の丞相曹操は、むかし濮陽に呂布を攻めて呂布にもてあそばれ、宛城に張繍と戦うて敗走し、また赤壁に周瑜を恐れ、華容に関羽に遭って泣訴して命を助かり、なおなお、近くは渭水潼関の合戦に、髯を切り、戦袍を捨てて辛くも逃げのがれ給いしとか。さるご名誉を持つ幕下の将士とあれば、たとい百万、二百万、挙げて西蜀に攻め来ろうとも、蜀の天嶮、蜀兵の勇、これをことごとく屠るに、なんの手間暇が要りましょうや。丞相もし蜀の山川風光の美もまだ見給わずば、いつでもお遊びにおいでください。
蜀軍の武威は大いに振った。行くところ敵なきその形容はまさに、原書三国志の記述に髣髴たるものがうかがわれる。――蜀ノ建興五年冬、孔明スデニ天水、南安、安定ノ三郡ヲ攻取リ、ソノ威、遠近ヲ靡カセ、大軍スデニ祁山ニ出デ、渭水ノ西ニ陣取リケレバ、諸方ノ早馬洛陽ヘ急ヲ告ゲルコト、霏々雪ノ飛ブガ如シ。 このとき魏はその国の大化元年にあたっていた。 国議は、国防総司令の大任を、一族の曹真に命じた。