湖南
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「湖南」登場回数
合計: 11回「湖南」が登場する場面
7件一帆呉へ下る
こうして、すでに長蛇を逸し去った曹操は、ぜひなく途中に軍の行動を停止して、各地に散開した追撃軍を漢水の畔に糾合したが、 。「他日、玄徳が江陵に入っては一大事である」 。 と、さらに湖南へ下ってそこを奪い、一部の兵を留めて、すぐ荊州へ引っ返してきた。 荊州には、鄧義とか劉先などという旧臣が守っていたが、もう幼主劉琮は殺され、襄陽はおち、軍民すべて曹操の下に服してしまっているので、 。「もはや誰のために戦おう」と、城門をひらいてことごとく曹操に降服してしまった。
奇舌学人
襄城の誘降は、外交だけで、かくの如き大成功を見たが、一方、荊州のほうは、完全に失敗していた。三。 荊州の劉表(湖北・湖南を領す。州治は襄陽)は、諸国に割拠する群雄のうちでも、たしかに群を抜いた一方の雄藩であった。 第一には、江岸の肥沃な地にめぐまれていたし、兵馬は強大だし、かつては江東の孫策の父孫堅すら、その領土へ侵入しては、惨敗の果てその身も戦死をとげ、恨み多き哀碑を建てて、いたずらに彼を誇らせたほどな地である。
溯江
三。 ここは揚子江支流の流域で、城下の市街は、海のような太湖に臨んでいた。孫堅のいる長沙城(湖南省)はその水利に恵まれて、文化も兵備も活発だった。 程普は、その日旅先から帰ってきた。 ふと見ると、大江の岸にはおよそ四、五百艘の軍船が並んでおびただしい食糧や武器や馬匹などをつみこんでいるのでびっくりした。
白羽扇
もって長久を計るに足りましょう」 。「それへ攻め入るには」 。「湘江の西、零陵(湖南省・零陵)から手をつけるのが順序でしょう。次に桂陽、武陵と取って、長沙へ進攻するのが自然かと思います。要するに、兵の進路は流れる水です。
臨江亭会談
そして陸口城市の河港に近い風光明媚の地、臨江亭に盛大な会宴の準備をしながら、一面、呂蒙だの甘寧などの大将に、「もし関羽が見えたときは、かくかくにして」と、すべての計をととのえていた。 臨江亭は湖北省にある。荊州はいうまでもなく湖南の対岸。――魯粛の使いは、舟行して江を渡った。しかもその使いは、ことさら華やかに装い、従者に麗しい日傘をかざさせて、いかにも悠暢に、会宴の招待にゆく使いらしく櫓音も平和に漕いで行った。
諸葛氏一家
彼らは、おのおの、選ぶ土地に居を求めて、そこで必然、新しい社会を形成し、新しい文化を建設して行った。 その分布は。 南方の沿海、江蘇方面から、安徽、浙江におよび、江岸の荊州(湖南、湖北)より、さらにさかのぼって益州(四川省)にまでちらかった。 継母をつれた諸葛瑾が、呉の将来に嘱目して、江を南へ下ったのは、さすがに知識ある青年の選んだ方向といっていい。 そして、やがてそれから七年目。
黄忠の矢
その人はもう年六十に近く、髪も髯も真っ白になっているだろう。しかし、戦場に立てば、よく大刀を使い、鉄弓を引き、万夫不当の勇がある。すなわち湖南の領袖、黄忠という――。ゆえに決して軽々しくは戦えない。もしご辺がそれに向うなれば、さらに、三千騎をわが君に仰いで、大兵を以て当らなければ無理であろう」と告げた。