瑯琊
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「瑯琊」登場回数
合計: 11回「瑯琊」が登場する場面
7件仲秋荒天
「袁術の内部から裏切りして、呂布の味方につき、地方へ赴任したあの二人か」 。「そうです。その後の両名は、沂都、瑯琊の両県に来て吏庁にのぞんでいましたが、たちまち苛税を課し良民を苦しめ、部下に命じて掠奪を行わしめ、婦女子をとらえて姦するなど、人心を険悪にすること一通りでありません。依って、人民の乞いをいれ、また、吏道を正す意味で、ひそかに関羽、張飛に命じ、両名を酒宴に招いて殺させました」 。「ほう。
呉の情熱
彭城の曼才、会稽の徳潤、沛県の敬文、汝南の徳枢、呉郡の休穆、また公紀、烏亭の孔休など。 かの水鏡先生が、孔明と並び称して――伏龍、鳳雛といった――その鳳雛とは、襄陽の龐統のことだが、その龐統も見えている。 そのほか、汝陽の呂蒙とか、呉郡の陸遜とか、瑯琊の徐盛とか――実に人材雲のごとしで、呉の旺なことも、故なきではないと思わせられた。「いま曹操が、呉に人質を求めてきたのは、諸侯の例によるものである。質子を出すは、曹操に服従を誓うものであり、それを拒むことは、即敵対の表示になる。
増長冠
むしろ二人を山東へやって、山東の地盤を強固ならしめたら、一、二年の間に大いに効果があがるでしょう」 。「実にも」と、呂布はうなずいた。 で、韓暹を沂都へ、楊奉を瑯琊へ役付けて、赴任させてしまった。 老人の子息陳登は、そのよしを聞いて、不平に思ったのか、或る時、ひそかに父の料簡をただした。「生意気をいうようですが、すこし父上のお考えと私の計画とはちがっていたようですね。
孫権立つ
姓を諸葛、名を瑾という。 孫権に、身の上をたずねられて、その人は語った。「郷里は、瑯琊の南陽(山東省・泰山の南方)であります。亡父は諸葛珪と申して、泰山の郡丞を勤めていましたが、私が洛陽の大学に留学中亡くなりました。その後河北は戦乱がつづいて、継母の安住も得られぬため、継母をつれて江東に避難いたし、弟や姉は、私と別れて、荊州の伯父のところで養われました」 。
建艦総力
孫権は、急遽、荊州から彼を呼びもどそうとしたが、その日の議席にいた徐盛が、 。「大王、大王の臣下はみな御手足と思っておるのに、何とて大王御自らの手足をさように軽んじ遊ばされますか」と、敢えて恨めしげに称えた。 徐盛は字を文嚮といい、瑯琊莒県の人、夙に武略の聞えがあった。孫権は彼のほうをながめて、 。「おおそこに徐盛こそいたか。
秋雨の頃
「おれも今日までになるには、随分親に不孝をかさねてきた」と、故山の父を思い出した。 彼の老父は、その頃もう故郷の陳留にもいなかった。瑯琊という片田舎に隠居していると聞くのみであった。 山東一帯に地盤もでき、一身の安定もつくと、曹操は老父をそうしておいては済まないと思い出した。「わしの厳父を迎えて来い」 。
立つ鳥の声
「ねがわくば、その人の名を聞こう。――徐庶、もっとつまびらかに語り給え」 。「その人の生地は瑯琊陽都(山東省・泰山南方)と聞き及んでおります。漢の司隷校尉、諸葛豊が後胤で、父を諸葛珪といい、泰山の郡丞を勤めていたそうですが、早世されたので、叔父の諸葛玄にしたがって、兄弟らみなこの地方に移住し、後、一弟と共に、隆中に草廬をむすび、時に耕し、時に書をひらき、好んで梁父の詩をよく吟じます。家のあるところ、一つの岡をなしているので里人これを臥龍岡とよび、またその人をさして臥龍先生とも称しています。