矢倉
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張英、陳横などの輩である。 沿岸の敗残兵を掃蕩しながら、やがて孫策は秣陵まで迫って行った。 張英は、城中の矢倉から敵の模様をながめていたが、近々と濠ぎわまで寄せてきた敵勢の中に、ひときわ目立つ若い将軍が指揮している雄姿を見つけて、 。「あっ、孫策だ」と、あわただしく弓をとって引きしぼった。 狙いたがわず、矢は、若い将軍の左の腿にあたり、馬よりどうと転げ落ちた。
「怪し火だ。」 。 銭糧倉から、また、矢倉下から、書楼の床下から、同時にまた、馬糧舎からも、諸門の番人が、いちどに喚き出した。 城将の太史慈は、 。「さわぐな。
陳武、蒋欽の二将は、小舟にのって、楓橋のうしろへ廻り、敵を挟撃したので、厳与は支えきれず、呉城へ後退してしまった。 息もつかせず、呉城へ迫った孫策は、濠ばたに馬を立てて、攻め競う味方を指揮していた。 すると、呉城の高矢倉の窓から半身のり出して、左の手を梁にかけ、右の手で孫策を指さしながら、何か、口汚く罵っている大将らしい漢がある。「憎き奴かな」 。 と、孫策がうしろを見ると、味方の太史慈も、目をとめて、弓をひきしぼっていた。
その夜、曹操は軍兵に率先して、みずから壕ぎわに立ち、 。「壕を埋めて押しわたれ。焼草を積んで城門矢倉を焼き払え」と、必死に下知した。 それに対して敵も死にもの狂いに、大木大石を落し、弩弓を乱射した。 矢にあたり、石につぶされる者の死骸で、濠も埋まりそうだった。
賈詡が胸中の計とは何。 彼は、張繍に説いた。「こんどの戦闘中、ひそかに、それがしが矢倉のうえから見ていると、曹操は、城攻めにかかる前に、三度、この城を巡って、四門のかためを視察していました。――そして彼がもっとも注意したらしい所は、東南の巽の門です。――なぜ注意したといえば、あそこは逆茂木の柵も古く、城壁も修理したばかりで、磚は古いのと新しいのと不揃いに積み畳まれている。
玄徳は、城門の下に馬を立て、 。「賢姪劉琮、ここを開けたまえ、多くの百姓どもの生命を救われよ」と、大音をあげた。 すると、答えはなくて、たちまち多くの射手が矢倉の上に現われて矢を酬いた。 玄徳につき従う数万の百姓群の上に、その矢は雨の如く落ちてくる。悲鳴、慟哭、狂走、混乱、地獄のような悲しみに、地も空も晦くなるばかりだった。
城外に高い井楼を組ませて、その上から城内の敵の防禦ぶりを望見していた周瑜は、こうつぶやきながらなお、眉に手をかざしていた。 見るに、城中の敵兵は大体三手にわかれている。そしてことごとく外矢倉や外門に出て、その本丸や主要の墻の陰には、すこぶる士気のない紙旗や幟ばかり沢山に立っていて、実は人もいない気配であった。「さては、敵将の曹仁も、ここを守り難しとさとって、外に頑強に防戦を示し、心には早くも逃げ支度をしておると見える。――よし。