箕谷
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彼の言は、孔明の心を、掌にのせて解説するようだった。英雄、英雄を知るものかと、張郃は聞き恍れていた。「――察するに、彼は斜谷(郿県の西南三十里・斜谷関)へ出て、郿城(陝西省・郡県)を抑え、それより兵をわけて、箕谷(府下城県の北二十里)に向うであろう。――で、わが対策としては、檄をとばして、曹真の手勢に一刻も早く郿城のまもりを固めさせ、一面箕谷の路には奇兵を埋伏して、彼がこれへ伸びてくるのを破砕し去ることが肝要だ」 。「そして、都督のご行動は」 。
これが郭淮の考えた蜀軍を釣る餌なのである。 一面。その郭淮は、箕谷と街亭の二要地へ大兵を配して、自身その指揮に臨み、また張遼の子張虎、楽進の子楽綝、このふたりを先鋒として、あらかじめある下知を附しておいた。 さらになお、陳倉道の王双軍とも聯絡をとって、蜀軍みだるるときの配置を万全にしておいたことはいうまでもない。「隴西から祁山の西を越えて、数千輛の車が、陳倉道へ兵糧を運んでゆく様子に見えまする」 。
一。 魏の総勢が遠く退いた後、孔明は八部の大軍をわけて箕谷と斜谷の両道からすすませ、四度祁山へ出て戦列を布かんと云った。「長安へ出る道はほかにも幾条もあるのに、丞相には、なぜいつもきまって、祁山へ進み出られるのですか」 。 諸将の問に答えて、 。