蕪湖
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もとより孫策は、深く計っていたことなので、そのまま、秣陵の城へ進むと、先に城中に押入っていた味方が、門を開いて、彼を迎え入れた。 一同、勝鬨の声をあわせて、万歳を三唱した頃、長江の水は白々と明け放れ、鳳凰山、紫金山の嶺々に朝陽は映えていた。 孫策は、即日、法令を布いて、人民を安んじ、秣陵には、味方の一部をのこして、直ちに、涇県(安徽省・蕪湖の南方)へ攻め入った。 この頃から、彼の勇名は、一時に高くなって、彼を呼ぶに、人々はみな、 。 江東の孫郎、 。
十里、二十里、奔っても奔っても追ってくる。 この地方には沼、湖水、小さな水溜りなどが非常に多い。長江のながれが蕪湖に入り、蕪湖の水がまた、曠野の無数の窪にわかれているのだった。 その湖沼や野にはまた、蕭々たる蘆や葭が一面に生い茂っていた。――ために、彼は幾たびか道を見失った。
孔明の船は、江をさかのぼって、遠く見えなくなった。 船影が見えなくなるまで、龐統は岸にたたずんでいたが、やがて飄乎として、何処へか立ち去った。 その後、呉では、周瑜の柩をさらに蕪湖(安徽省・蕪湖)へ送った。蕪湖は周瑜の故郷であり、そこの地には故人の嫡子や女などもいるし、多くの郷党もみな嘆き悲しんでいるので、名残りを篤うさせたのであった。 けれどいくら死後の祭を盛大にしてやっても、なお恋々と故人の才を惜しんでは日夜痛嘆していたのは孫権自身であった。