西蔵
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そもそも、孟獲の本国、南蛮中部の蛮都は、雲南(昆明)よりはもっと遥か南にあった。そして、蛮都の地名を銀坑洞とよび、沃野広く三江の交叉地に位置しているという。 これを現今の地図で測ると、もとより千七百年前の地名は遺されていないが、南方大陸の河流から考察するに、仏領印度支那のメコン河の上流、また泰国のメナム河の上流、ビルマのサルウィン河の上流などは、共に遠くその源流を雲南省、西康省、西蔵東麓地方から発して、ちょうど孔明の遠征した当時の蛮界をつらぬいているのではないかと思われる。 それと当年の蛮...
一。 当時、中国の人士が、西羗の夷族と呼びならわしていたのは、現今の青海省地方――いわゆる欧州と東洋との大陸的境界の脊梁をなす大高原地帯――の西蔵人種と蒙古民族との混合体よりなる一王国をさしていっていたものかと考えられる。 さて。 その西羗王国と魏とは、曹操の世代から交易もしていたし、彼より貢物の礼をとっていた。