許昌
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「許昌」登場回数
合計: 23回「許昌」が登場する場面
7件一書十万兵
「義兵は勝ち、驕兵はかならず敗る。誰も知る戦の原則である。――曹操はいま許昌にあって、天下を制しているが、命はみな帝の御名を以てし、士卒は精練、彼自身は、機変妙勝の胆略を蔵している。故に、彼の出す法令には、誰も拒むことができない。しかるに――」 。
七軍魚鼈となる
「腑がいないことを。」と、それを知って憤慨したのは満寵である。「この洪水は、長雨の山水が嵩んだものゆえ、急にはひかぬにせよ、半月も待てば必ずもとにかえる、情報によれば、許昌地方もこの水害に侵され、飢民は暴徒と化し、百姓は騒ぎ乱れ、事情は刻々険悪な状態にあると承る。――しかも関羽の軍が、その鎮定におもむかず、乱にまかせているのは、もし軍を割いて、それへ向えば、たちまちこの樊城から後を追撃されるであろうと、大事をとって動かずにいるのです」 。 そう説明して、彼はまた曹仁のために、この際、処すべ...
両虎競食の計
士を愛すること、女を愛する以上であった曹操が、いかに徐晃を優遇したかいうまでもなかろう。 楊奉、韓暹のふたりは、奇襲を試みたが、徐晃は敵方へ走ってしまったし、所詮、勝ち目はないと見たので、南陽(河南省)へと落ちのび、そこの袁術を頼って行った。 ――かくて、帝の御車と、曹操の軍は、やがて許昌の都門へ着いた。 ここには、旧い宮門殿閣があるし、城下の町々も備わっている。曹操はまず、宮中を定め、宗廟を造営し、司院官衙を建て増して、許都の面目を一新した。
大号令
「――王法に親なし、諸将はただよく職分に尽せ。いま魏の曹操は、朝権を奪って、その罪のはなはだしさ、かの董卓にもこえるものがある。内には、天子を許昌の府に籠め奉り、外には暴兵を派して、わが呉をも侵さんとしておる。この賊を討つは、人臣の務めたり、また正義の擁護である。それ戦いにあたるや、功あるは賞し、罪あるは罰す。
奇舌学人
その間になすべきことがないではありません。まず外交内結、国内を固めておくべきでしょう。愚臣の観るところでは、荊州の劉表と、襄城(河南省・許昌西南)の張繍とは、ひそかに聯携して、あえて、朝廷にさえ不遜な態度を示しています。――いま丞相が使臣をそれへ遣わされて、その不平を慰撫し、その欲するものを与え、その誇るものを煽賞し、一時、虫をこらえて、礼を厚うしてお迎えあらば、彼らはかならず来って丞相の麾下に合流しましょう。――すでに荊州襄城のふたつを、丞相の勢力下に加えておしまいになれば、天下、ひびきに...
改元
二。 献帝はまだ御齢三十九歳であった。九歳の時董卓に擁立されて、万乗の御位について以来、戦火乱箭の中に幾たびか遷都し、荊棘の道に飢えをすら味わい、やがて許昌に都して、ようやく後漢の朝廟に無事の日は来ても、曹操の専横はやまず、魏臣の無礼、朝臣の逼塞、朝はあってなきが如きものだった。 およそ天の恵福の薄かったことは、東漢の歴代中でも、この献帝ほどの方は少ないであろう。そのご生涯は数奇にして薄幸そのものであったというほかはない。
文武競春
そうか」 。 曹操は、程昱が考えたところのものを、もう結果まで読みとっていた。 その夕、彼は、銅雀台の遊楽も半ばに、漳河の春にも心を残しながら、にわかに車駕をととのえて許昌の都へ帰って行った。 そして、呉使華欽に、大理寺少卿という官爵を与え、彼を都へとどめておく一方、勅命を乞うて、程昱の献策どおり、勅使を呉の国へ馳せ下した。