許昌
別名
許都
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六。 盧植がいうには、 。 ――そもそもこの地方は、嶮岨が多くて、守る賊軍に利があり、一気に破ろうとすれば、多大に味方を損じるので、心ならずも、こうして長期戦を張って、長陣をしている理であるが、折入って、貴下に頼みたいというのは、賊の総大将張角の弟で張宝・張梁のふたりは目下、潁川(河南省・許昌)のほうで暴威をふるっている。 その方面へは、やはり洛陽の朝命をうけて、皇甫嵩・朱雋の二将軍が、官軍を率いて討伐に向っている。 ここでも勝敗決せず、官軍は苦戦しているが、わが広宗の地よりも、戦うに益が...
――彼の兵馬はもう東へ東へと移動を開始していた。四。 その年の十二月、曹操の遠征軍は、まず陳の国を攻め、汝南(河南省)潁川地方(河南省・許昌)を席巻して行った。 ――曹操来る。 ――曹操来る。
二。 献帝はまだ御齢三十九歳であった。九歳の時董卓に擁立されて、万乗の御位について以来、戦火乱箭の中に幾たびか遷都し、荊棘の道に飢えをすら味わい、やがて許昌に都して、ようやく後漢の朝廟に無事の日は来ても、曹操の専横はやまず、魏臣の無礼、朝臣の逼塞、朝はあってなきが如きものだった。 およそ天の恵福の薄かったことは、東漢の歴代中でも、この献帝ほどの方は少ないであろう。そのご生涯は数奇にして薄幸そのものであったというほかはない。
「将軍の大功は天子もみそなわし、庶民もよく知るところですが、朝廟の旧殻には、依然、伝統や閥や官僚の小心なる者が、おのおの異った眼、異った心で将軍を注視しています。それに、洛陽の地も、政をあらためるに適しません。よろしく天子の府を許昌(河南省・許州)へお遷しあって、すべての部門に溌剌たる革新を断行なさるべきではないかと考えられます」 。 耳を傾けていた曹操は、 。「近頃含蓄のある教えを承った。
士を愛すること、女を愛する以上であった曹操が、いかに徐晃を優遇したかいうまでもなかろう。 楊奉、韓暹のふたりは、奇襲を試みたが、徐晃は敵方へ走ってしまったし、所詮、勝ち目はないと見たので、南陽(河南省)へと落ちのび、そこの袁術を頼って行った。 ――かくて、帝の御車と、曹操の軍は、やがて許昌の都門へ着いた。 ここには、旧い宮門殿閣があるし、城下の町々も備わっている。曹操はまず、宮中を定め、宗廟を造営し、司院官衙を建て増して、許都の面目を一新した。
「呂布についてのご内命は、事にわかには参りかねます。いずれ機を図って命を果たす日もありましょうが、今しばらくは」と、仔細は書面にしたためて、謝恩の表と共に、使者へ託した。 使者は、許都へ帰った。そしてありのまま復命した。 曹操は荀彧をよんで、 。
近ごろ、老生の聞く所によると、袁術は、玉璽を手にいれ、不日天子の称を冒さんとしている由です。明らかな大逆です。この際、あなたとしては、ご息女の輿入れをお見合わせになったのを幸いに、急兵を派して、まだ旅途にある使者の韓胤を搦め捕り、許都の朝廷へさし立てて、順逆を明らかにしておくべきではありませんか。曹操は、あなたの功を認めるでしょう。あなたは、官軍たるの強みを持ち、曹操の兵を左翼に、劉玄徳を右翼として、大逆の賊を討ち掃うべきです。