遼西
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即ち、彼は王修の乞いを許し、その上、司金中郎将に封じて、上賓の礼を与えた。 幽州(冀東)の方面では、早くも、曹軍の襲来を伝えて、大混乱を起していた。 所詮、かなわぬ敵と怖れて、袁尚はいち早く、遼西(熱河地方)へさして逃げのび、州の別駕、韓珩一族は、城を開いて、曹操に降った。 曹操は、降を容れ、韓珩を鎮北将軍に任じて、さらに、并州面の戦況を案じ、みずから大兵を率いて、楽進、李典などの加勢におもむいた。 袁紹の甥高幹は、并州の壺関(河北省境)を死守して、なお陥ちずにあった。
「――これでいい」と、しなかった。 彼の胸中は、大地の広大のごとく、果てが知れなかった。「いま、袁煕、袁尚の兄弟は、遼西の烏丸(熱河地方)におるという。この際、放棄しておいては、後日の禍いになろう。遼西、遼東の地をあわせ定めておかなければ、冀北、冀東の地も永久に治まるまい」 。
また、妊娠中に夫人が、北斗星を呑んだ夢を見たというので、幼名を「阿斗」とつけ、すなわち劉禅阿斗と称した。 時は、建安十二年の春だった。 ちょうどその前後、曹操の遠征は、冀州から遼西にまで及んで、許昌の府は、ほとんど手薄とうかがわれたので、玄徳は再三再四、劉表に向って、 。「今こそ、志を天下に成す時ですが」と、すすめたが、劉表の答えはきまってこうであった。「いや自分は、荊州九郡を保ってさえいれば、家は富み国は栄えるばかりだ。
一。 河北の広大をあわせ、遼東や遼西からも貢ぎせられ、王城の府許都の街は、年々の殷賑に拍車をかけて、名実ともに今や中央の府たる偉観と規模の大を具備してきた。 いわゆる華の都である。人目高いその都門へ、赤裸同然な態たらくで逃げ帰ってきた曹仁といい、またわずかな残兵と共にのがれ帰った李典といい、不面目なことはおびただしい。
味方の安危如何はその時かと思われます」 。「曹操がみずから攻めてくるようだったら、それは容易ならぬことになる。北方の袁紹ですら一敗地に滅び、冀北、遼東、遼西まで席巻したあの勢いで南へきたら。」 。「かならず参ります。
まして今、玄徳亡く、遺孤劉禅をようやく立てたばかりの敵の情勢においてはです」 。「五路とは、いかなる戦法か」 。「まず、遼東へ使いをはせて、鮮卑国王へ金帛を送り、遼西の胡夷勢十万をかり催して、西平関へ進出させること。これ一路であります」 。「うむ。