金城
金城(きんじょう)とは
守りの硬い城のこと
「そちは関外に陣取れ」 。 と、三万の精兵を授けた。 この要害に、董卓自ら守りに当って、十二万の兵を鎮し、さらに三万の精兵を前衛に立てて、万夫不当といわれる呂布をその先手に置いたのであるから、まさに金城鉄壁の文字どおりな偉観であった。 かく、十州の通路を断たれて、諸侯が各〻その本国との連絡を脅かされてきたので、寄手の陣には、動揺の兆しがあらわれた。「由々しいこととなった。
「あなたは実に天運に恵まれた御方である。たとい袁紹は亡くても、冀北の強大は、普通ならここ二代や三代で亡ぶものではありません。しかし、外には兵革に敗れ、内には賢臣みな誅せられ、あげくの果て、世嗣の位置をめぐって骨肉たがいに干戈をもてあそび、人民は嘆き、兵は怨嗟を放つの有様、天も憎しみ給うか、昨年来、飢餓蝗害の災厄も加わって、いまや昔日の金城湯池も、帯甲百万も、秋風に見舞われて、明日も知れぬ暗雲の下におののき慄えているところです。――ここをおいて、荊州へ入らんなどは、平路を捨てて益なき難路を選ぶ...
一。 魏の勢力が、全面的に後退したあとは、当然、玄徳の蜀軍が、この地方を風靡した。 上庸も陥ち、金城も降った。 申耽、申儀などという旧漢中の豪将たちも、 。「いまは誰のために戦わん」といって、みな蜀軍の麾下へ、降人となって出た。
けれどそこは今、地名だけに遺っている前秦時代の古城があるに過ぎない。もちろん久しく人も住まず壁石垣も荒れ崩れている。「時にとって、五百の精霊が一体となって立てこもれば、これでも金城鉄壁といえないことはない」 。 ここへ入って、廖化がそう士気を鼓舞すると、関平もまず自ら気を旺に示して、 。「そうだとも。
めずらしく今朝はすこし気分が快いらしく、曹操は、見舞に来た華歆とはなしこんでいた。華歆は、 。「侍医の百計も、験がないと御意遊ばすなら、いま金城に住居すると聞く華陀をお召しになってごらんなさい。華陀は天下の名医です」 。 と、しきりにすすめているのだった。
「えっ。先生、それはほんとですか」 。「いま、郷里の家人へ宛ててわしが書簡を書くから、金城のわしの家まで行って、その医書を貰って参るがよい。書簡の内へも書いておくが、それは青嚢の書といって、書庫の奥深くに秘して、今日まで他人に見せたことはないものじゃ」 。 華陀は留守のわが家へ宛てて手紙を書いた。
あれ扶けてよ」 。 侍従に命じて抱き起させ、また帝みずから御手をのばして、鸞駕の内に孔明の座を分けあたえられた。 幼帝と、丞相孔明と、同車相並んで、満顔に天日の輝きをうけ、成都宮の華陽門に入るや、全市の民は天にもひびくよろこびをあげ、宮中百楼千閣は、一時に、音楽を奏して、紫雲金城の上に降りるかと思われた。 が、孔明は自己の功を忘れていた。吏に命じて、従軍中の戦死病歿の子孫をたずねさせ、漏るるなくこれを慰め、閑有っては、久しく見なかった農村へ行って、今年の実りを問い、村の古老、篤農を尋ね、孝...