長坂
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見れば、後陣の張飛。「たのむぞ」 。 あとを任せて、玄徳は逃げのびたが、やがて南のほう――長坂坡の畔りにいたると、ここに一陣の伏兵あって、 。「劉予州、待ちたまえ、すでにご運のつきどころ、いさぎよくお首をわたされよ」 。 と、道を阻めて、名乗り立った一将がある。
血を撒きこぼして、大地へたたきつけていた。 残る雑兵輩を追いちらして、趙雲は糜竺を扶けおろした。そして敵の馬を奪って、彼を掻き乗せ、また甘夫人も別な駒に乗せて、長坂橋のほうへ急いだ。 ――と。 そこの橋の上に、張飛が馬を立てていた。
おそらく彼にしても、この二将を斃したのが最後の頑張りであったろう。前後して縉と紳の二名を斬りすてたものの、気息は奄々とあらく、満顔全身、血と汁にまみれ、彼の馬もまたよろよろに成り果てて、からくも死地を脱することができた。 そしてようやく長坂坡まで来ると、彼方の橋上に、今なおただ一騎で、大矛を横たえている張飛の姿が小さく見えた。「おおーいっ。張飛っ」 。
と荀彧らにも励まされてか、俄然数万騎を増派して、みずから下知に当り、 。「どこまでも」と、その急追をゆるめないのであった。 ために玄徳は、長坂橋(湖北省・当陽、宜昌の東十里)附近でもさんざんに痛めつけられ、漢江の渡口まで追いつめられてきた頃は、進退まったくきわまって、 。「わが運命もこれまで――」と、観念するしかないような状態に陥っていた。 ところが、ここに一陣の援軍があらわれた。
おまけに、あの迎えの舟には、趙雲が乗っているではないか。常山の趙子龍といえば、万夫不当の勇将だ。長坂坡以来、彼の勇名は音に聞えている。この少ない追手の人数をもって、追いついたところで、犬死するだけのこと。いかに都督の命令でも、犬死しては何もならん。
「敵の劉玄徳は、天子の皇叔なりなどと僭称していますが、事実は辺土の小民、その生い立ちは履売りの子に過ぎません。――関羽、張飛、また不逞の暴勇のみ、何を恐れて、桂城の誇りを、自ら彼らの足もとへ放擲なさろうとしますか」 。「でも、これへ向って来ると聞く趙雲子龍は、かつて当陽の長坂坡で、曹軍百万の中を駈け破った勇者ではないか」 。「その趙雲と、この陳応と、いずれが真の勇者であるか、とくと見届けてから降参しても遅くはありますまい」 。 非常な自信である。
「誰か」と、たずねた。 玄徳が、これはわが家臣、常山の趙子龍と答えると、母公はまた、 。「では、当陽の戦いに、長坂で和子の阿斗を救ったというあの名誉の武将か」と、いった。「そうです」とうなずくと、母公は、彼に酒を賜えとすすめた。趙雲は拝謝して杯をいただきながら、玄徳の耳へ、そっとささやいた。