長江
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もし黄祖を破ったら、その功は、汝のものであるぞ」 。 と、盃になみなみと酒をたたえて与えた。 かくて、周瑜を大都督に任じ、呂蒙を先手の大将となし、董襲、甘寧を両翼の副将として、呉軍十万は、長江をさかのぼって江夏へおしよせた。四。 鴻はみだれて雲にかくれ、柳桃は風に騒いで江岸の春を晦うした。
一。 牛渚(安徽省)は揚子江に接して後ろには山岳を負い、長江の鉄門といわれる要害の地だった。「――孫堅の子孫策が、南下して攻めて来る。」 。
陳横も、討たれた。 もとより孫策は、深く計っていたことなので、そのまま、秣陵の城へ進むと、先に城中に押入っていた味方が、門を開いて、彼を迎え入れた。 一同、勝鬨の声をあわせて、万歳を三唱した頃、長江の水は白々と明け放れ、鳳凰山、紫金山の嶺々に朝陽は映えていた。 孫策は、即日、法令を布いて、人民を安んじ、秣陵には、味方の一部をのこして、直ちに、涇県(安徽省・蕪湖の南方)へ攻め入った。 この頃から、彼の勇名は、一時に高くなって、彼を呼ぶに、人々はみな、 。
十里、二十里、奔っても奔っても追ってくる。 この地方には沼、湖水、小さな水溜りなどが非常に多い。長江のながれが蕪湖に入り、蕪湖の水がまた、曠野の無数の窪にわかれているのだった。 その湖沼や野にはまた、蕭々たる蘆や葭が一面に生い茂っていた。――ために、彼は幾たびか道を見失った。
「よろしく江東に派兵して、忘恩の徒を懲らすべきである」と、衆口こぞって云った。 しかし、楊大将は反対して、 。「江東を討つには、長江の嶮を渡らねばならん。しかも孫策は今、日の出の勢いで、士気はあがっている――如かず、ここは一歩自重してまず北方の憂いをのぞき、味方の富強を増大しておいてから悠々南へ攻め入っても遅くないでしょう」 。「そうだ。
と、征途を半ばにして、すぐ都へ引揚げた。 許都へ帰るにあたって、彼は、呉の孫策へ早馬をとばし、 。「君は、兵船を以て、長江を跨ぐがごとく布陣し、上流荊州の劉表を、暗に威嚇しておるように」 。 と、申入れた。 また、呂布と玄徳には、 。
袁紹は死し、曹操の威は震雷している。――が、果たして、旧土の亡民は、心からその威に服しているかどうか。 益州――巴蜀の奥地は、なおまだ颱風の圏外にあるかのごとく、茫々の密雲にとざされているが、長江の水は、そこから流れてくるものである。 水源、いつまで、無事でいよう。かならずや、群魚の銀鱗が、そこへさかのぼる日の近いことは、分りきっている。