関中
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「丞相。今はその時ではありますまい。関中の人民は、新帝定まり給うてから、まだ幾日も、安き心もなかった所です。そこへまた、歴史ある洛陽を捨てて、長安へご遷都などと発布されたら、それこそ、百姓たちは、鼎のごとく沸いて、天下の乱を助長するばかりでしょう」 。 太尉黄琬も、彼についで、発言した。
挙句の果てには、草の上に寝ころんだり、頬杖ついて、。敵はどこかね 。潼関の関中だそうだ 。櫓にいたのは鴉じゃないのか 。なあに曹洪と徐晃さ 。
その都府、中心地は、成都である。 ただこの地方の交通の不便は言語に絶するものがある。北方、陝西省へ出るには有名な剣閣の嶮路を越えねばならず、南は巴山山脈にさえぎられ、関中に出る四道、巴蜀へ通ずる三道も嶮峻巍峨たる谷あいに、橋梁をかけ蔦葛の岩根を攀じ、わずかに人馬の通れる程度なので、世にこれを、 。「蜀の桟道」と呼ばれている。 さて、こういう蜀も、遂に、時代の外の別天地ではあり得なかった。
そこで、双方同時に、退き鉦をならす――馬超も張飛も、満面から湯気をたてて自陣へさがった。 時をおいて、ふたたび張飛が、関門を出ようとすると、玄徳が、 。「夜に入った、戦は明日にいたせ」と関中に止めて放さなかった。 万一、張飛が負けて、馬超に討たれでもしてはと、きょうの合戦を見てから、にわかに、心配になったからである。 ところが寄手は、夜に入っても退かず、明々の松明をつらね、篝火を焚き、 。
こういう公明な主をえらぶに、何でうしろ暗い憚りをもつことがある。第一、玄徳に力を添えて曹操を討つは、大きくは四民万象のため、一身には、父母の仇を報じる大孝ではないか」 。 唯々として、彼はもう李恢と駒をならべて、関中へ向っていた。 伴われて、玄徳に会った。 この英気ある青年の良心的な降伏に対して、間の悪いような思いをさせる玄徳でもない。
と悲壮極まることばが読まれた。 先頃。 魏はおびただしい軍隊を呉の境に派して、しかも戦い利あらず、のち曹休も歿し、以後、魏の関中にはかつての如き勢いなくまた戦気も見えず、西域の守りも自然脆弱たるをまぬがれまい――と見て孔明が、この再挙の機をとらえて、表を上せてきたものであることは、すでに言外にあふれている。 もとより帝はこれをゆるした。 楊儀は直ちに漢中へ急ぎ帰った。