関西
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敵の先鋒には、それがしまず味方の先鋒となって、ひと当り当て申さん」と、云いながら、はいってきた一将軍があった。 諸人、眸をあつめて、誰かと見るに、虎体狼腰、豹頭猿臂、まことに稀代な骨がらを備えた勇将とは見えた。 すなわち、関西の人、華雄将軍であった。「おお、華雄か。いみじくも申したり。
関羽は、山賊の将たる彼が、いちいち自分に推服の声をもらしているので、どうして自分を知っているかと問いただした。 裴元紹は、答えて、 。「ここから二十里ほど先の臥牛山(河南省・開封附近)に、関西の周倉という人物が棲んでいます。板肋虬髯、左右の手によく千斤をあぐ――という豪傑ですが、この者が、将軍をお慕いしていることは、ひと通りではありません」 。「いかなる素姓の人か」 。
さもあらんと思っていたが、果たせるかな、密々詔まで賜わっておられたか。――ああ、時節到来」と、狂喜した。 そこでまず二人は、関西の兵をうながす檄文を起草し、都下出発の朝、勢揃いと称して、曹操の閲兵を乞い、急に陣鉦を鳴らすを合図に、曹操を刺し殺してしまおうと、すべての手筈まで諜し合わせた。 黄奎は夜おそく家へ帰った。さすがに酒も発せず、すぐ寝房へ入った。
父亡き後、幼少、彼は叔父の夏侯惇に育てられてきた。後、曹操がそれを愍れんで自身の一女を娶合せたので、諸人の尊重をうけてきたが、ようやくその為人が現われてくるにつれて天性やや軽躁、そして慳吝な質も見えてきたので、魏軍のうちでもあまり声望はなかった。 しかしその位置、その重職には、不足ない大将軍たる資格はあるので、衆議異論なく、叡帝またその志を壮なりとして、関西の軍馬二十万馬を与え、以て、孔明を粉砕すべしと、印綬をゆるした。底本:「三国志(七)」吉川英治歴史時代文庫、講談社 。 1989(...
蜀の大軍は、沔陽(陝西省・沔県、漢中の西)まで進んで出た。ここまで来た時、 。「魏は関西の精兵を以て、長安(陝西省・西安)に布陣し、大本営をそこにおいた」 。 という情報が的確になった。 いわゆる天下の嶮、蜀の桟道をこえて、ここまで出てくるだけでも、軍馬は一応疲れる。