陳倉
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と、常に軽挙を押えていた。 しかし、彼はただ安愉を求めているのではない。さきに孔明は街亭へ出て失敗しているから、次にはかならず陳倉道へ出てくるであろうと予想した。で、帝にすすめて、不落の一城をその道に築き、雑覇将軍郝昭に守備を命じた。 郝昭は太原の人、忠心凛々たる武人の典型である。
詔を拝すと、孔明は、 。「いざ、征かん」 。 約半歳余の慎重な再備と軍紀に結集された蜀の士馬三十万を直ちに起して、陳倉道へ向って進発した。 この年、孔明四十八歳。――時は冱寒の真冬、天下に聞ゆる陳倉道(沔県の東北二十里)の嶮と、四山の峨々は、万丈の白雪につつまれ、眉も息も凍てつき、馬の手綱も氷の棒になるような寒さであった。
八陣の法そのほか、従来の孫呉や六韜にも著しい新味が顕わされ、それは後代の戦争様相にも劃期的な変革をもたらした。 ところで。 郝昭のこもった陳倉の小城は、わずか三、四千の寡兵をもって、その装備ある蜀の大軍に囲まれたのであるから、苦戦なこというまでもない。 にもかかわらず、容易に抜かせなかったのは、実に、主将郝昭の惑いなき義胆忠魂の働きであり、また名将の下に弱卒なしの城兵三千が、一心一体よくこれを防ぎ得たものというほかない。「――かくて魏の援軍が来ては一大事である」 。
二。 孔明は三度目の祁山出兵を決行した。 その動機は、陳倉の守将郝昭が、このところ病に罹って重態だという確報を得たからであった。 郝昭は、洛陽へ急を報じ、自分に代る大将の援軍を仰いだ。 長安にある郭淮は、 。
「――血を吐いて昏絶す」というとよほどな重態か不治の難病にでも罹ったように聞えるが、「血を吐く」も「昏絶」も原書のよく用いている驚愕の極致をいう形容詞であることはいうまでもない。 孔明は、王平と張嶷を招き、 。「汝らおのおの千騎をひっさげ、陳倉道の嶮に拠って、魏の難所を支えよ」と、命じた。 二将は唖然とした。いや哀しみ顫いた。
それから一ヵ月ほど後。 すなわち魏の孫礼は、兵糧を満載したように見せかけた車輛を何千となく連れて、祁山の西にあたる山岳地帯を蜿蜒と行軍していた。(陳倉の城と、王双の陣へ、後方から運輸してゆくもの)とは一見誰でもわかる。 けれど車輛の上にはみな青い布がかぶせてあって、その下には硫黄、焔硝、また油や柴などがかくしてあった。これが郭淮の考えた蜀軍を釣る餌なのである。