雲南
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だから支那の代表的人物はことごとく戦乱の中に人と為り戦乱の裡に人生を積んできた。また民衆もその絶えまなき動流の土に耕し、その戦々兢々たるもとに子を生み、流亡も離合も苦楽もまたすべての生計も、土蜂の如く戦禍のうちに営んできた。 わけて後漢の三国対立は、支那全土を挙げて戦火に連なる戦火の燎原と化せしめ、その広汎な陣炎は、北は蒙疆の遠くを侵し、南は今日の雲南から仏印地方(インドシナ半島)にまでわたるという黄土大陸全体の大旋風期であった。大乱世の坩堝であった。 このときに救民仁愛を旗として起ったの...
汝の言は、理としては聞えるが、尊ぶには足らん」 。 蜀帝の決意は固かった。 その後、蜀帝の勅使は、ひそかに南蛮(雲南・昆明)へ往来した。 そして南蛮兵五万余を借り出すことに成功を見た。 その間に、張飛の一身に一奇禍が起った。
――遼東鮮卑国(遼寧省)の兵五万が、西平関(甘粛省・西寧)を犯して四川へ進攻して来るもの。 第二路は。――南蛮王(貴州・雲南・ビルマの一部)の孟獲が、約七万をもって益州の南部を席巻して来ようとするもの。 第三路は。――呉の孫権が長江をのぼって峡口から両川へ攻め入るもの。
すでにして、益州の南部に入った。山川は嶮しく気候は暑く、軍旅の困難は、到底、中原の戦とは較べものにならない。 建寧(雲南省・昆明)の太守は雍闓という者であったが、彼はすでに反蜀聯合の一頭目をもって自負し、背後には南蛮国の孟獲とかたく結び、左右には越雋郡の高定、牂※郡の朱褒と一環の戦線を形成して、 。「孔明が自ら来るとは望むところだ」 。 と、まず六万の軍を、その通路へ押し出してもみ潰さんと待ちかまえていた。
わしの指にでも触れたければ汝も王化の人になれ」 。「王化王化というが、おれも南蛮国王だぞ。おれの都は先祖以来銀坑山(雲南省)にあって三江の要害と重関をめぐらしている。そこでおれを破ったらなるほどてめえも相当偉いといってよかろう。だが何だ、これしきの勝ちを取ったからといって、総帥面も片腹痛い」 。
弟の孟優も朶思大王も、同時に免した。三名は馬を貰って、愧ずるが如く、逃げ帰った。 そもそも、孟獲の本国、南蛮中部の蛮都は、雲南(昆明)よりはもっと遥か南にあった。そして、蛮都の地名を銀坑洞とよび、沃野広く三江の交叉地に位置しているという。 これを現今の地図で測ると、もとより千七百年前の地名は遺されていないが、南方大陸の河流から考察するに、仏領印度支那のメコン河の上流、また泰国のメナム河の上流、ビルマのサルウィン河の上流などは、共に遠くその源流を雲南省、西康省、西蔵東麓地方から発して、ちょう...