一 顔良が討たれたので、顔良の司令下にあった軍隊は支離滅裂、潰走をつづけた。 後陣の支援によって、からくも頽勢をくい止めたものの、ために袁紹の本陣も、少なからぬ動揺をうけた。 「いったい、わが顔良ほどな豪傑を、たやすく討...
一 さて、その後。 ――焦土の洛陽に止まるも是非なしと、諸侯の兵も、ぞくぞく本国へ帰った。 袁紹も、兵馬をまとめて一時、河内郡(河南省・懐慶)へ移ったが、大兵を擁していることとて、立ちどころに、兵糧に窮してしまった。 ...
一 何思ったか、関羽は馬を下り、つかつかと周倉のそばへ寄った。 「ご辺が周倉といわれるか。何故にそう卑下めさるか。まず地を立ち給え」と、扶け起した。 周倉は立ったが、なお、自身をふかく恥じるもののように、 「諸州大乱...
一 十年語り合っても理解し得ない人と人もあるし、一夕の間に百年の知己となる人と人もある。 玄徳と孔明とは、お互いに、一見旧知のごとき情を抱いた。いわゆる意気相許したというものであろう。 孔明は、やがて云った。 「も...
一 呉を興した英主孫策を失って、呉は一たん喪色の底に沈んだが、そのため却って、若い孫権を中心に輔佐の人材があつまり、国防内政ともに、いちじるしく強化された。 国策の大方針として、まず河北の袁紹とは絶縁することになった。 ...
一 亡国の最後をかざる忠臣ほど、あわれにも悲壮なものはない。 審配の忠烈な死は、いたく曹操の心を打った。 「せめて、故主の城址に、その屍でも葬ってやろう」 冀州の城北に、墳を建て、彼は手厚く祠られた。 建安九...
張角(ちょうかく)とは、中国後漢末期に「黄巾の乱」の指導者として知られる人物です。 生涯 張角は後漢末期、幽州鉅鹿郡(現在の中国河北省一帯)出身とされ、兄弟に張宝・張梁がいます。彼は民間で道教的な宗教指導者として信仰を集め、「太...
中山(ちゅうざん/ちゅうさん)は、中国古代の地名・国名の一つとして、三国志やその時代背景にしばしば登場する。三国志の物語の中では、特に「中山靖王」や「中山王」などの爵位や王号で言及されることが多い。 中山は本来、戦国時代に現在の河北...
一 関羽が、顔良を討ってから、曹操が彼を重んじることも、また昨日の比ではない。 「何としても、関羽の身をわが帷幕から離すことはできない」 いよいよ誓って、彼の勲功を帝に奏し、わざわざ朝廷の鋳工に封侯の印を鋳させた。 ...
一 それより前に、関羽は、玄徳の書をたずさえて、幽州涿郡(河北省・涿県)の大守劉焉のもとへ使いしていた。 太守劉焉は、何事かと、関羽を城館に入れて、庁堂で接見した。 関羽は、礼をほどこして後、 「太守には今、士を四...
一 城兵の士気は甦った。 孤立無援の中に、苦闘していた城兵は、思わぬ劉玄徳の来援に、幾たびも歓呼をあげてふるった。 老太守の陶謙は、「あの声を聞いて下さい」と、歓びにふるえながら、玄徳を上座に直すと、直ちに太守の佩印を...
一 槍の先に、何やら白い布をくくりつけ、それを振りながらまっしぐらに駈けてくる敵将を見、曹操の兵は、 「待てっ、何者だ」と、たちまち捕えて、姓名や目的を詰問した。 「わしは、曹丞相の旧友だ。南陽の許攸といえば、きっと覚えて...
一 いまや曹操の勢いは旭日の如きものがあった。 北は、北狄とよぶ蒙古に境し、東は、夷狄と称する熱河の山東方面に隣するまで――旧袁紹治下の全土を完全に把握してしまった。彼らしい新味ある施政と威令とは、沈澱久しかった旧態を一掃し...
一 大戦は長びいた。 黄河沿岸の春も熟し、その後袁紹の河北軍は、地の利をあらためて、陽武(河南省・原陽附近)の要害へ拠陣を移した。 曹操もひとまず帰洛して、将兵を慰安し、一日慶賀の宴をひらいた。 その折、彼は諸人...
一 その晩、山上の古城には、有るかぎりの燭がともされ、原始的な音楽が雲の中に聞えていた。 二夫人を迎えて張飛がなぐさめたのである。 「ここから汝南へは、山ひとこえですし、もう大船に乗った気で、ご安心くださるように」 ...
一 渦まく水、山のような怒濤、そして岸うつ飛沫。この夜、白河の底に、溺れ死んだ人馬の数はどれ程か、その大量なこと、はかり知るべくもない。 堰を切り、流した水なので、水勢は一時的ではあった。しかしなお、余勢の激流は滔々と岸を洗...
一 劉備玄徳は、毎日、無為な日に苦しんでいた。 ここ河北の首府、冀州城のうちに身をよせてから、賓客の礼遇をうけて、なに不自由もなさそうだが、心は日夜楽しまない容子に見える。 なんといっても居候の境遇である。それに、万里...
一 袁紹はわずか八百騎ほどの味方に守られて、辛くも黎陽まで逃げのびてきたが、味方の聯絡はズタズタに断ち切られてしまい、これから西すべきか東すべきか、その方途にさえ迷ってしまった。 黎山の麓に寝た夜の明け方ごろである。 ...
一 周瑜は、呉の先主、孫策と同じ年であった。 また彼の妻は、策の妃の妹であるから、現在の呉主孫権と周瑜とのあいだは、義兄弟に当るわけである。 彼は、盧江の生れで、字を公瑾といい、孫策に知られてその将となるや、わずか二十...
一 さて。――日も経て。 曹操はようやく父のいる郷土まで行き着いた。 そこは河南の陳留(開封の東南)と呼ぶ地方である。沃土は広く豊饒であった。南方の文化は北部の重厚とちがって進取的であり、人は敏活で機智の眼がするどく働...
一 年明けて、建安三年。 曹操もはや四十を幾つかこえ、威容人品ふたつながら備わって、覇気熱情も日頃は温雅典麗な貴人の風につつまれている。時には閑を愛して独り書を読み、詩作にふけり、終日、春闌の室を出ることもなかった。また或る...
一 玄徳が河北にいるという事実は、やがて曹操の耳にも知れてきた。 曹操は、張遼をよんで、 「ちか頃、関羽の容子は、どんなふうか」と、たずねた。張遼は、答えて、 「何か、思い事に沈んでおるらしく、酒もたしなまず、無口に...
一 そのむかし、まだ洛陽の一皇宮警吏にすぎなかった頃、曹操という白面の青年から、おれの将来を卜してくれといわれて、 「おまえは治世の能臣だが、また乱世の奸雄だ」 と予言したのは、洛陽の名士許子将という人相観だった。 ...
一 雨やどりの間の雑談にすぎないので巧みに答えをかわされたが、曹操は、腹も立てられなかった。 玄徳は、すこし先に歩いていたが、よいほどな所で、彼を待ち迎えて、 「まだ降りそうな雲ですが」 「雨もまた趣があっていい。雨...
一 百官の拝礼が終って、 「新帝万歳」の声が、喪の禁苑をゆるがすと共に、御林軍(近衛兵)を指揮する袁紹は、 「次には、陰謀の首魁蹇碩を血まつりにあげん」 と、剣を抜いて宣言した。 そしてみずから宮中を捜しまわっ...