中部
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帝と、帝の弟の陳留王とは、河原の草の裡へ抱き合って、しばし近づく兵馬に耳をすましておられた。二。 やがて河を越えて驟雨のように馳け去って行ったのは、河南の中部掾史、閔貢の兵馬であったが、なにも気づかず、またたくまに闇に消え去ってしまった。「…………」 。 しゅく、しゅく……と新帝は草むらの中で泣き声をもらした。
襄陽の市街から孔明の家のある隆中へ行くには、郊外の道をわずか二十里(わが二里)ぐらいしかない。 隆中は山紫水明の別天地といっていい。遠く湖北省の高地からくる漢水の流れが、桐柏山脈に折れ、※水に合し、中部支那の平原をうねって、名も沔水と変ってくると、その西南の岸に、襄陽を中心とした古い都市がある。 孔明の家から、晴れた日は、その流れ、その市街がひと目に見えた。彼の宅地は隆中の小高い丘陵の中腹にあり、家のうしろには、楽山とよぶ山があった。
弟の孟優も朶思大王も、同時に免した。三名は馬を貰って、愧ずるが如く、逃げ帰った。 そもそも、孟獲の本国、南蛮中部の蛮都は、雲南(昆明)よりはもっと遥か南にあった。そして、蛮都の地名を銀坑洞とよび、沃野広く三江の交叉地に位置しているという。 これを現今の地図で測ると、もとより千七百年前の地名は遺されていないが、南方大陸の河流から考察するに、仏領印度支那のメコン河の上流、また泰国のメナム河の上流、ビルマのサルウィン河の上流などは、共に遠くその源流を雲南省、西康省、西蔵東麓地方から発して、ちょう...
その途中幾回となく、蜀兵が阻めた。しかし何の備えもなく狼狽のまま立ち向って来るに過ぎなかった。二、三百の小隊もあり七、八百の中部隊もあった。もとよりその程度のものでは、鎧袖一触の値すらない。 蹂躙、また蹂躙。