五丈原
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ひとたびその荊州の足場を失っては、さすがの関羽も、末路の惨、老来の戦い疲れ、描くにも忍びないものがある。全土の戦雲今やたけなわの折に、この大将星が燿として麦城の草に落命するのを境として、三国の大戦史は、これまでを前三国志と呼ぶべく、これから先を後三国志といってもよかろうと思う。「後三国志」こそは、玄徳の遺孤を奉じて、五丈原頭に倒れる日まで忠涙義血に生涯した諸葛孔明が中心となるものである。出師の表を読んで泣かざるものは男児に非ずとさえ古来われわれの祖先もいっている。誤りなく彼も東洋の人である。
予もそう観ていたところだ」 。 それから仲達は珍しくこんな意見を洩らした。「――もし孔明が、斜谷、祁山の兵を挙って、武功に出で、山に依って東進するようだったら憂うべきだが、西して五丈原へ出れば、憂いはない」 。 さすがに司馬懿は慧眼であった。彼がこの言をなしてから日ならずして、孔明の軍は果然移動を開始した。
或いは、その死は今夜中かも知れぬ。天文を観るに、将星もすでに位を失っている。――汝、すぐ千余騎をひっさげて五丈原をうかがいみよ。もし蜀勢が奮然と討って出たら、孔明の病はまだ軽いと見なければならぬ。怪我なきうちに引っ返せ」 。
「でも、いずれにしろ、孔明が死んだとすれば、蜀軍の破れは必至でしょう。慌てるには及びません。まず夏侯覇にお命じあって、五丈原の敵陣をうかがわせては如何ですか」 。 これは息子たちの云い分のほうが正しいように諸将にも聞えた。息子自慢の司馬懿は、息子たちにやり込められると、むしろうれしいような顔つきをした。
一。 旌旗色なく、人馬声なく、蜀山の羊腸たる道を哀々と行くものは、五丈原頭のうらみを霊車に駕して、空しく成都へ帰る蜀軍の列だった。「ゆくてに煙が望まれる。……この山中に不審なことだ。