会稽
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「会稽」登場回数
合計: 20回「会稽」が登場する場面
7件仲秋荒天
「かならず怒り立って、攻め襲うて来るにちがいない」 。 とも思われたので、大江の沿岸一帯に兵船をうかべ、いつでもござんなれとばかり備えていた。 ところへ、許都の曹操から使者が下って、天子のみことのりを伝え、孫策を会稽の太守に封じた。 孫策は、詔をうけたが、同時に曹操からの要求もあった。 いやそれは朝命としてであった。
名医
厳白虎は弟が首になって帰ったのを見ると、復讐を思うよりはかえって孫策のすさまじい挑戦ぶりにふるえあがって、 。「単独で戦うのは危険だ」と、考えた。 ひとまず会稽(浙江省・紹興)へ退いて、浙江省の諸雄をたのみ、策を立て直そうと、ひどく弱気になって、烏城を捨て、夜中にわかに逃げだしてしまった。 寄手の太史慈や黄蓋などはそれを追いまくって、存分な勝ちを収めた。 きのうまでの、「東呉の徳王」も、見る影もなくなってしまった。
呉の情熱
当時、呉下の智能はほとんど一堂に集まったといっていい。 張昭、張絋、周瑜、魯粛などの宿将をはじめとして、 。 彭城の曼才、会稽の徳潤、沛県の敬文、汝南の徳枢、呉郡の休穆、また公紀、烏亭の孔休など。 かの水鏡先生が、孔明と並び称して――伏龍、鳳雛といった――その鳳雛とは、襄陽の龐統のことだが、その龐統も見えている。 そのほか、汝陽の呂蒙とか、呉郡の陸遜とか、瑯琊の徐盛とか――実に人材雲のごとしで、呉の旺なことも、故なきではないと思わせられた。
絶妙好辞
蔡琰はかしこまって、 。「これは、曹娥と申すものの碑文でございます。昔、和帝の朝、会稽の上虞というところに、曹※と申す一人の師巫がおりました。この人は神楽の上手な人で、ある年の五月五日、したたか酒に酔いまして、舟の上で舞いますうち、あやまって川に落ち、水に溺れて、とうとう死にました。その人に十四歳になる娘がありましたが、これを哭き哀しみまして、毎日毎夜川のふちをめぐっておりましたが、七日七夜目、とうとう娘も淵に飛び込んでしまったのです」 。
舌戦
一座やや白けたかと見えた時である。突として立った者がある。会稽郡余姚の人、虞翻、字は仲翔であった。「率直にお訊ねするの不遜をおゆるしありたい。いま曹操の軍勢百万雄将千員、天下を一呑みにせんが如き猛威をふるっておるが、先生には何の対策かある。
荊州変貌
「その儀なれば、弓を張り、矢をつがえるにも及びません」 。 と、豪語した。誰かと見れば、会稽余姚の人虞翻である。孫権は、莞爾と見て、 。「虞翻、いかなる計やある。
霹靂車
「人の喪に乗じて、軍を興すなどとは、丞相にも似あわしからぬことでしょう。古の道にも、聞いた例がありません」といったので、曹操もその卑劣をふかく恥じたとみえ、以後、それを口にしないばかりでなく、上使を呉へ送って後継者の孫権に恩命をつたえた。 すなわち孫権を討虜将軍、会稽の太守に封じ、また張紘には、会稽の都尉を与えて帰らせた。 彼の選んだ方針と、呉がきめていた国策とは、その永続性はともかく孫策の死後においては、端なくも一致した。 ――だが、おさまらないのは、河北の袁紹であった。