成都
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「成都」登場回数
合計: 152回「成都」が登場する場面
7件七軍魚鼈となる
時に、次男の関興が、荊州からきたので、関羽は、諸将のてがらと戦況をつぶさに書いて、 。「これを漢中王におとどけせよ」 。 と、使いを命じて、成都へやった。底本:「三国志(六)」吉川英治歴史時代文庫、講談社 。 1989(平成元)年5月11日第1刷発行 。
上・中・下
「同宗のよしみと、こんどのことを恩にきせて、ともあれそれくらいな要求をしてみると、劉璋の心底も見当がつきましょうし、巧く望みどおりの力を貸してくれれば、そのあとで龐統にもいささか策がありますから」 。「それもよかろう」 。 使者は、成都へ向って行った。 途中、涪水関(重慶の東方)にかかると、その日も、山上の関門から手をかざして、麓の道を監視していた番兵が、 。「玄徳の部下らしく、小旗を持った荊州の使者が、今これへかかって来ます。
中原を指して
鄧芝は、きょうの勝ち戦を賀したのち、趙雲に云った。「お齢もすでに七旬を越されているのに、きょうの戦場で三人の若い大将を討ち、一人の大将を生擒ってこられるなど、まったく壮者も及ばぬお働き、実に驚き入りました。……これでは成都を立つ前に、丞相が留守へ廻そうとしたのに対して、ご不満をのべられたのも無理ではありませんな」 。 趙雲は快然と笑った。「いや、その意地もあるので、きょうは少し働いた。
二次出師表
だから曹休が敗れ去ると共に、呉軍の引揚げも早かった。蜀へ対する条約履行はこれで果しているからである。さらになお、呉の孫権は、この戦果と、義務の完遂を、書簡のうちに誇張して、成都へ使いを派し、蜀の劉禅にむかって、 。「呉が、盟約を重んずることは、かくの如くである。貴国はなお安んじて、孔明をして、魏を攻めさせ給え。
具眼の士
……陛下も何とぞ先帝の英資にあやかり給うてよく輔弼の善言を聞き、民を慈しみ給い、社稷をお守りあって、先帝のご遺命を完う遊ばさるるよう伏しておねがい致しまする。――臣は、遠き戦陣におりましても、心はつねに陛下のお側におりましょう。陛下もまた、孔明はここにあらずとも、常に成都を守っているものとお思い遊ばしてお心づよくおわしませ」 。 後主劉禅は、孔明がこう別れを奏してひれ伏すと、何のことばもなくしばし御衣の袂に面をつつんでいた。 なおこの際にも、成都人の一部では、宮門の柏樹が毎夜泣くとか、南方...
冬将軍
「ああまた一虎は逝いた。五虎の大将軍、すでに逝くもの三人」 。 成都へ彼の棺槨を送るの日、玄徳は曠野に立って灰色の雪空を長く仰いでいた。「かくては」と、玄徳は自ら心を励まし、御林の軍をひきいて、凍る帝旗を、さらに、猇亭(湖北省・宜都の西方)まで進めた。 はからずもこの附近で、呉の韓当軍と会戦した。
出師の表
勅命によって、司馬懿仲達は、官職を剥がれ、その場から故郷へ帰されてしまった。そして、彼ののこした雍涼の軍馬は、曹休が承け継いだ。 このことは、蜀の細作からすぐ成都へ飛報された。孔明はいったい物事に対して余り感情を現わさない人であるが、これを聞いたときは「仲達が西涼にあるあいだは、如何とも意を展べがたしと観念していたが、今はなんの憂いかあらん」と限りなく喜悦したということである。 彼は丞相府の邸に籠って、幾日かのあいだ、門を閉じ客を謝していた。