江蘇
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「江蘇」登場回数
合計: 9回「江蘇」が登場する場面
7件名医
「すわこそ。」 。 と、どよめき立ち、厳白虎の弟厳与は、楓橋(江蘇省・蘇州附近)まで兵を出して防寨に拠った。 この際、孫策は、 。「たかのしれた小城」 。
小覇王
)とばかりに江を渡って、孫軍と合流し、共に劉繇の留守城を攻めたので、たちまちそこは陥落してしまったのであった。 何にしても、かんじんな根拠地を失ったのであるから、劉繇の狼狽も無理ではない。「この上は、秣陵(江蘇省・南京の南方鳳凰山)まで引上げ、総軍一手となって防ぐしかあるまい」と、全軍一夜に野を払って、秋風の如く奔り去った。 ところが、奔り疲れて、その夜、露営しているとまた、孫策の兵が、にわかに夜討ちをかけてきて、さらぬだに四分五裂の残兵を、ここでも散々に打ちのめした。 敗走兵の一部は、薛礼...
平和主義者
× × × 。 時に。 その後の袁術の勢力はどうかというに、彼もまた淮南を中心に、江蘇、安徽一帯にわたっていよいよ強大を加え、しかも内心不敵な野望を抱いていたから、軍備城塞にはことに力を注いでいた。「今日、この議閣に諸君の参集を求めたのはほかでもないが、今となって孫策から、にわかに、伝国の玉璽を返せと云ってきた。――どう答えてやったものだろうか。
日輪
「忠義なものである。この忠良な臣の遺言をなんで反古にしてよいものではない」 。 孫権は、一方には、刻々迫る戦機を見ながら、一面直ちに、その居府を、建業(江蘇省・南京)へ遷した。 かくてその地には、白頭城が築かれ、旧府の市民もみな移ってきた。 また、呂蒙の意見を容れて、濡須(安徽省・巣湖と長江の中間)の水流の口から一帯にかけて、堤を築いた。
殺地の客
糜竺はもともと外交の才があり臨機の智に富んでいる。彼は山東の一都市に生れ、家は郯城きっての豪商であった。――いまは遠い以前となったが、玄徳が旗挙げ早々、広陵(江蘇省・揚州市)のあたりで兵員も軍用金も乏しく困窮していた頃――商家の息子たる糜竺は、玄徳の将来を見こんで、その財力を提供し、兵費を賄い、すすんで自分の妹を、玄徳の室に入れ、以来、今日にいたるまで、もっぱら玄徳軍の財務経理を担当して来たという帷幕の中でも一種特異な人材であった。「そちが行ってくれれば申分はない。頼むぞ」 。
母と妻と友
五。 翌日。呂布の使いは、広陵(江蘇省・楊州)へ立った。 玄徳は、その後、わずかな腹心と共に、広陵の山寺にかくれていた。 乱世の慣いとはいえ、一歩踏みはずすと、その顛落は実に早い。
秋雨の頃
――ひとつ曹操に会ったら見せてやろう」 。 などと興じていた。 途中、徐州(江蘇省・徐州)まで来ると、太守陶謙が、わざわざ自身、郡境まで出迎えに出ていた。そして、 。「ぜひ、こよいは城内で」と、徐州城に迎え、二日にわたって下へもおかないほど歓待した。