江蘇
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――ひとつ曹操に会ったら見せてやろう」 。 などと興じていた。 途中、徐州(江蘇省・徐州)まで来ると、太守陶謙が、わざわざ自身、郡境まで出迎えに出ていた。そして、 。「ぜひ、こよいは城内で」と、徐州城に迎え、二日にわたって下へもおかないほど歓待した。
五。 翌日。呂布の使いは、広陵(江蘇省・楊州)へ立った。 玄徳は、その後、わずかな腹心と共に、広陵の山寺にかくれていた。 乱世の慣いとはいえ、一歩踏みはずすと、その顛落は実に早い。
)とばかりに江を渡って、孫軍と合流し、共に劉繇の留守城を攻めたので、たちまちそこは陥落してしまったのであった。 何にしても、かんじんな根拠地を失ったのであるから、劉繇の狼狽も無理ではない。「この上は、秣陵(江蘇省・南京の南方鳳凰山)まで引上げ、総軍一手となって防ぐしかあるまい」と、全軍一夜に野を払って、秋風の如く奔り去った。 ところが、奔り疲れて、その夜、露営しているとまた、孫策の兵が、にわかに夜討ちをかけてきて、さらぬだに四分五裂の残兵を、ここでも散々に打ちのめした。 敗走兵の一部は、薛礼...
「すわこそ。」 。 と、どよめき立ち、厳白虎の弟厳与は、楓橋(江蘇省・蘇州附近)まで兵を出して防寨に拠った。 この際、孫策は、 。「たかのしれた小城」 。
× × × 。 時に。 その後の袁術の勢力はどうかというに、彼もまた淮南を中心に、江蘇、安徽一帯にわたっていよいよ強大を加え、しかも内心不敵な野望を抱いていたから、軍備城塞にはことに力を注いでいた。「今日、この議閣に諸君の参集を求めたのはほかでもないが、今となって孫策から、にわかに、伝国の玉璽を返せと云ってきた。――どう答えてやったものだろうか。
彼らは、おのおの、選ぶ土地に居を求めて、そこで必然、新しい社会を形成し、新しい文化を建設して行った。 その分布は。 南方の沿海、江蘇方面から、安徽、浙江におよび、江岸の荊州(湖南、湖北)より、さらにさかのぼって益州(四川省)にまでちらかった。 継母をつれた諸葛瑾が、呉の将来に嘱目して、江を南へ下ったのは、さすがに知識ある青年の選んだ方向といっていい。 そして、やがてそれから七年目。
糜竺はもともと外交の才があり臨機の智に富んでいる。彼は山東の一都市に生れ、家は郯城きっての豪商であった。――いまは遠い以前となったが、玄徳が旗挙げ早々、広陵(江蘇省・揚州市)のあたりで兵員も軍用金も乏しく困窮していた頃――商家の息子たる糜竺は、玄徳の将来を見こんで、その財力を提供し、兵費を賄い、すすんで自分の妹を、玄徳の室に入れ、以来、今日にいたるまで、もっぱら玄徳軍の財務経理を担当して来たという帷幕の中でも一種特異な人材であった。「そちが行ってくれれば申分はない。頼むぞ」 。