江陵
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最後の一策として試みた奇襲も惨敗に帰したばかりか、たのみとしていた干糜、樊能の二将まで目のまえで孫策のために殺されてしまったので、劉繇は、 。「もう駄目だ」と、力を落して、わずかな残兵と共に、荊州へ落ちて行った。 荊州(湖北省・江陵・揚子江流域)には一方の雄たる劉表がなお健在である。 劉繇は始め、秣陵へ退いて、陣容をたて直すつもりだったが、敗戦の上にまた敗北を重ねてしまい、全軍まったく支離滅裂となって、彼自身からして抗戦の気力を失ってしまったので、 。「この上は、劉表へすがろう」とばか...
おそらく同士打ちを起しているのでしょう。しかし、入るべからずです。道をかえて江陵(湖北省・沙市、揚子江岸)へ行きましょう」 。「えっ、江陵へ。」 。
「何じゃ、そんなに急を要することとは」 。「玄徳以下の者が、ここを逃げ去ってから、もう十日余りとなります。彼らがもし江陵の要害に籠り、そこの金銀兵糧などを手に入れたら如何なさいますか」 。「あっ、そうだ。」 。
「橋を焼いて逃げるようでは、やはり大した兵力は残っていないに相違ない。しまった、すぐ三ヵ所に橋を架け、玄徳を追いつめろ」と、号令をあらためた。 玄徳主従とその残兵は、初め江陵へさして落ちてきたのであるが、こんな事情でその方角へはとうてい出られなくなったので、にわかに道を変更して、沔陽から漢津へ出ようと、夜も昼も逃げつづけていた。
そして何らの異変もないと確かめて後、玄徳や孔明、劉琦などは前後して入城した。 こうして、すでに長蛇を逸し去った曹操は、ぜひなく途中に軍の行動を停止して、各地に散開した追撃軍を漢水の畔に糾合したが、 。「他日、玄徳が江陵に入っては一大事である」 。 と、さらに湖南へ下ってそこを奪い、一部の兵を留めて、すぐ荊州へ引っ返してきた。 荊州には、鄧義とか劉先などという旧臣が守っていたが、もう幼主劉琮は殺され、襄陽はおち、軍民すべて曹操の下に服してしまっているので、 。
これを避けるは兵家の常道であり、また百年の大志を後に期し給うからである。――とはいえ、白河の激水に、夏侯惇、曹仁の輩を奔流の計にもてあそび、博望の谿間にその先鋒を焼き爛し、わが軍としては、退くも堂々、決して醜い潰走はしていません。――ただ当陽の野においては、みじめなる離散を一時体験しましたが、これとて、新野の百姓老幼数万のものが、君の徳を慕いまいらせ、陸続ついて来たために――一日の行程わずか十里、ついに江陵に入ることができなかった結果です。それもまた主君玄徳の仁愛を証するもので、恥なき敗戦と...
数千の兵船が、舳艫をならべて遡航しつつあるとのこと。また、三江の江岸一帯、前代未聞の水寨を構築しています。さらに、北岸の形勢をうかがうに、魏の曹操は、百万に近い大軍をもって、江陵、荊州地方から続々と行動を起し、水陸にかけて真黒な大軍団が、夜も昼も、南へ南へと移動しつつあります」と、あった。 玄徳はその報告の半ばまで聞かないうちに、もう脈々たる血のいろを面にあらわし、 。「さては、わが策成れり」 。