祁山
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「よし。もう惑わぬ」 。 姜叙、楊阜は歴城に屯し、尹奉と趙昂は、郷党の兵をひきいて、祁山へ進出した。 すると、趙昂の妻は衣服や髪飾りを、のこらず売り払って、祁山の陣へ行き、 。「門出の心祝いです。
蜀軍の武威は大いに振った。行くところ敵なきその形容はまさに、原書三国志の記述に髣髴たるものがうかがわれる。――蜀ノ建興五年冬、孔明スデニ天水、南安、安定ノ三郡ヲ攻取リ、ソノ威、遠近ヲ靡カセ、大軍スデニ祁山ニ出デ、渭水ノ西ニ陣取リケレバ、諸方ノ早馬洛陽ヘ急ヲ告ゲルコト、霏々雪ノ飛ブガ如シ。 このとき魏はその国の大化元年にあたっていた。 国議は、国防総司令の大任を、一族の曹真に命じた。
その西羗王国と魏とは、曹操の世代から交易もしていたし、彼より貢物の礼をとっていた。異種族が最も光栄として喜ぶ位階栄爵などを朝廷の名をもって彼に贈与してあるので、それを恩としているものだった。 時に、魏の叡帝は、曹真が祁山における大敗を聞いて、孔明の大軍の容易ならざる勢力を知り、遠く、使いを派して、西羗の国王徹里吉に対し、 。 ――高原の強軍を起して孔明の、うしろを脅かし、西部の境に、第二戦線を張られたし。 と、教書をもって、これに行動をうながした。
(汝、国を憂い、南陽諸道の軍馬を糾合して、日を期し、長安に出るあらば、朕また鸞駕を備えて長安へむかい、相会してともに孔明をやぶらん)と、伝えさせた。 この日頃。 一方、祁山の陣にある孔明は、 。「機運すでに熟す。この上は長安を乗っ取り、なお長駆して洛陽に入ろう」 。
「さらば、支度をなせ」と、彼を先鋒へ返してから、仲達は祐筆に命じて、檄をしたためさせ、これを曹真の本陣へ告げて、作戦方針を示し、かたがた、 。「孔明の誘いに吊られて、めったに動き給うな」とかたく戒めた。 祁山(甘粛省・鞏昌附近)一帯の山岳曠野を魏、蜀天下の分け目の境として、まさにその第一期戦はここに展開されようとしている。 この地形、この広大な天地は、まさに孔明のほうから選んで取った戦場である。この大会戦に先んじて、蜀軍がまず地理的優位を占めていたことはいうまでもない。
(魏が呉を侵すときは、蜀は直ちに、魏の背後を脅かさん。もしまた、魏と蜀とが相たたかう場合は、呉は魏の側面からこれを撃つの義務を持つ) 。 というその折の条文によって、祁山、街亭の戦いが開始されるや、呉は当然、どういう形をとっても、魏の側面へ向って軍事行動を起さなければならない立場にあったのである。 これに対して、魏もまた、充分なる警戒を払っていたにちがいない。そうした空気において、たまたま周魴の詭計が行われたので、それを口火として、時を移さず魏呉の戦端がひらかれたものと、正しくは観るべきも...
姜維の一言に孔明も大いに悟るところがあった。一転、彼は方針をかえた。 すなわち、陳倉の谷には、魏延の一軍をとどめて、対峙の堅陣を張らせ、また、近き街亭方面の要路には、王平と李恢に命じて、これを固く守らせておいて、孔明自身は、夜ひそかに陳倉を脱し、馬岱、関興、張苞などの大軍をつれて遠く山また山の間道を斜谷を越え、祁山へ出て行ったのである。 一面。――魏の長安大本営では、大都督曹真が、王双からの捷報を聞いて、 。