秣陵
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「秣陵」登場回数
合計: 15回「秣陵」が登場する場面
7件休戦
「中央の府に対し、毎年、貢ぎを献じるというならば」と案外、受けやすい条件を出して答えたので、和睦はたちまちまとまった。 けれど、真の平和の到来でないことは、魏にも呉にも分っていた。曹操は全軍を引いて都へ帰り、孫権は秣陵へ引揚げたものの、その前線濡須の口も、魏の境界、合淝の守りも、双方ともいよいよ堅固に堅固を加え合うばかりだった。
冬葉啾々
一、今はその時でない事 。 一、漢中の張魯、蜀の玄徳などの動向の重大性 。 一、呉の新城秣陵の堅固と長江戦の至難 。 一、魏の内政拡充と臨戦態勢の整備 。 等の項目にわたって諫言したので、曹操も思い直して出動を見あわせ、しばらくはなお、内政文治にもっぱら意をそそぐこととした。
小覇王
)とばかりに江を渡って、孫軍と合流し、共に劉繇の留守城を攻めたので、たちまちそこは陥落してしまったのであった。 何にしても、かんじんな根拠地を失ったのであるから、劉繇の狼狽も無理ではない。「この上は、秣陵(江蘇省・南京の南方鳳凰山)まで引上げ、総軍一手となって防ぐしかあるまい」と、全軍一夜に野を払って、秋風の如く奔り去った。 ところが、奔り疲れて、その夜、露営しているとまた、孫策の兵が、にわかに夜討ちをかけてきて、さらぬだに四分五裂の残兵を、ここでも散々に打ちのめした。 敗走兵の一部は、薛礼...
日時計
その人だった。 主柱たる劉繇が、どこともなく逃げ落ちてしまってからも、彼は、節を変えず、離散した兵をあつめ、涇県の城にたてこもり、依然として抗戦しつづけていた。 きのうは九江に溯江し、きょうは秣陵に下り、明ければまた、涇県へ兵をすすめて行く孫策は、文字どおり南船北馬の連戦であった。「小城だが、北方は一帯の沼地だし、後ろは山を負っている。しかも城中の兵は、わずか二千と聞くが、この最後まで踏み止まっている兵なら、おそらく死を決している者どもにちがいない」 。
日輪
孫権は涙しながらその遺書を見た。 張紘の遺書には縷々として、生涯の君恩の大を謝してあった。そして、自分は日頃から、呉の都府は、もっと中央に地の利を占めなければならぬと考え、諸州にわたって地理を按じていたが、秣陵(南京附近)の山川こそ実にそれに適している。万世の業礎を固められようとするなら、ぜひ遷都を実現されるように。これこそいま終りに臨んでなす最後のご恩報じの一言であると結んであった。
臨江亭会談
甘寧、呂蒙の兵が、弓をならべて、矢を江上へ射ったが、一舟は悠々帆を張って、順風を負いながら、対岸から出迎えにきた数十艘の快舟のうちへ伍して去った。 交渉、ここに破れ、国交の断絶は、すでに避け難い。 魯粛のつぶさな書状を捧じて、早馬は呉の秣陵へ急ぎに急ぐ。 呉の国都には、これと同時に、べつな方面から、魏の曹操が、三十万の大軍をもって、南下しつつあるという飛報が入っていた。
鵞毛の兵
曹操は決断した。壮図なお老いずである。江を下る百帆の兵船、陸を行く千車万騎、すでに江南を呑むの概を示して、大揚子江の流れに出で、呉都秣陵の西方、濡須の堤へ迫った。「来れ、遠路の兵馬」と、呉軍は待ち構えていた。彼が長途のつかれを討つべく。