曹洪(そうこう)とは 後漢末から三国時代にかけての武将で、魏の曹操に仕えた重臣。字は子廉(しれん)。曹操の従弟であり、曹仁の兄弟と並んで曹氏一族を代表する勇将の一人。 生涯 曹操の挙兵当初から従い、常に軍の中核を担っ...
献帝(けんてい)とは 後漢の最後の皇帝、名は劉協(りゅうきょう)。霊帝の子として生まれ、在位は189年から220年まで。形式的には皇帝でありながら、実権を握れず群雄に翻弄された悲劇の君主である。 生涯 幼くして父・霊...
劉協(りゅうきょう)とは 劉協は、後漢の皇子で、後に献帝(けんてい)として即位した後漢最後の皇帝である。霊帝の子で、少帝劉弁の異母弟にあたる。 生涯 劉協は霊帝の皇子として生まれ、母は霊思皇后(王美人ではない)。聡明...
曹操孟徳(そうそう もうとく)とは 曹操は後漢末から三国時代初期にかけて活躍した群雄で、魏の基礎を築いた人物である。字は孟徳(もうとく)。その才能と多面性から「治世の能臣、乱世の奸雄」と評される。 魏王(ぎおう)とは ...
一 魏では、その年の建安二十五年を、延康元年と改めた。 また夏の六月には、魏王曹丕の巡遊が実現された。亡父曹操の郷里、沛の譙県を訪れて、先祖の墳を祭らんと沙汰し、供には文武の百官を伴い、護衛には精兵三十万を従えた。 沿...
一 蜀を破ったこと疾風迅雷だったが、退くこともまた電馳奔来の迅さであった。で、勝ち驕っている呉の大将たちは、陸遜に向って、 「せっかく白帝城へ近づきながら石の擬兵や乱石の八陣を見て、急に退いてしまったのは、一体いかなるわけです...
一 壮図むなしく曹丕が引き揚げてから数日の後、淮河一帯をながめると縹渺として見渡すかぎりのものは、焼け野原となった両岸の芦萱と、燃え沈んだ巨船や小艇の残骸と、そして油ぎった水面になお限りなく漂っている魏兵の死骸だけであった。 ...
一 曹丕が大魏皇帝の位についたと伝え聞いて、蜀の成都にあって玄徳は、 「何たることだ!」と、悲憤して、日夜、世の逆しまを痛恨していた。 都を逐われた献帝は、その翌年、地方で薨去せられたという沙汰も聞えた。玄徳はさらに嘆き...
一 北方攻略の業はここにまず完成を見た。 次いで、曹操の胸に秘められているものは、いうまでもなく、南方討伐であろう。 が、彼は、冀州城の地がよほど気に入ったとみえて、ここに逗留していること久しかった。 一年余の工...
一 せっかく名医に会いながら、彼は名医の治療を受けなかった。のみならず華陀の言を疑って、獄へ投じてしまったのである。まさに、曹操の天寿もここに尽きるの兆というほかはない。 ところが、典獄の呉押獄は、罪なき華陀の災難を気の毒に...
一 馬謖は云った。 「なぜか、司馬懿仲達という者は、あの才略を抱いて、久しく魏に仕えながら、魏では重く用いられていません。彼が曹操に侍いて、その図書寮に勤めていたのは、弱冠二十歳前後のことだと聞いています。曹操、曹丕、曹叡、三...
一 曹操の死は天下の春を一時寂闇にした。ひとり魏一国だけでなく、蜀、呉の人々の胸へも云わず語らず、人間は遂に誰であろうとまぬがれ難い天命の下にあることを、今さらのように深く内省させた。 「故人となって見れば彼の偉大さがなお分る...
一 いま漢中は掌のうちに収めたものの、曹操が本来の意慾は、多年南方に向って旺であったことはいうまでもない。 いわんや、呉といえば、あの赤壁の恨みが勃然とわいてくるにおいてはである。 「漢中の守りは、張郃、夏侯淵の両名で事...
一 ここまでは敗走一路をたどってきた曹操も、わが子曹彰に行き会って、その新手五万の兵を見ると、俄然、鋭気を新たにして、急にこういう軍令を宣した。 「ここに斜谷の天嶮あり、ここに北夷を平げて、勇気凜絶の新手五万あり、加うるに、わ...
一 この年四月頃から蜀帝玄徳は永安宮の客地に病んで、病状日々に篤かった。 「いまは何刻か?」 枕前の燭を剪っていた寝ずの宿直や典医が、 「お目ざめでいられますか。いまは三更でございます」と、奏した。 白々と耀き...
一 敵を誘うに、漫罵愚弄して彼の怒りを駆ろうとするのは、もう兵法として古すぎる。 で、蜀軍はわざと虚陣の油断を見せたり、弱兵を前に立てたり、日々工夫して、釣りだしを策してみたが、呉は土龍のように、依然として陣地から一歩も出て...
一 曹丕が甚だしく怒った理由というのはこうであった。 以下、すなわち令旨をたずさえて、曹植のところから帰ってきた使者の談話である。 「――私が伺いました日も、うわさに違わず、臨淄侯曹植様には、丁儀、丁廙などという寵臣を侍...
武帝(ぶてい)とは、中国の歴代王朝で一般的に用いられた諡号や尊称ですが、三国志の文脈で「武帝」と記す場合、もっとも有名なのは曹操(そうそう)を指します。曹操は魏を建国した曹丕(曹操の子)から「武帝」の諡号を贈られました。したがって、三...
一 玄徳の死は、影響するところ大きかった。蜀帝崩ず、と聞えて、誰よりも歓んだのは、魏帝曹丕で、 「この機会に大軍を派せば、一鼓して成都も陥すことができるのではないか」 と虎視眈々、群臣に諮ったが、賈詡は、 「孔明がお...
一 亡国の最後をかざる忠臣ほど、あわれにも悲壮なものはない。 審配の忠烈な死は、いたく曹操の心を打った。 「せめて、故主の城址に、その屍でも葬ってやろう」 冀州の城北に、墳を建て、彼は手厚く祠られた。 建安九...
一 要するに、陸遜の献策は。 一つには魏の求めに逆らわず、二つには蜀との宿怨を結ばず、三つにはいよいよ自軍の内容を充実して形勢のよきに従う。 ということであった。 呉の方針は、それを旨として、以後、軍は進めて、あ...
一 孔明還る、丞相還る。 成都の上下は、沸き返るような歓呼だった。後主劉禅にも、その日、鸞駕に召されて、宮門三十里の外まで、孔明と三軍を迎えに出られた。 帝の鸞駕を拝すや、孔明は車から跳びおりて、 「畏れ多い」と、...
一 ――それより前に。 張飛の首を船底に隠して、蜀の上流から千里を一帆に逃げ降った范疆、張達のふたりは、その後、呉の都建業に来て、張飛の首を孫権に献じ、今後の随身と忠節を誓ったあげく、 「蜀軍七十余万が、近く呉に向って襲...
一 呉に年々の貢ぎ物をちかわせて来たことは、遠征魏軍にとって、何はともあれ、赫々たる大戦果といえる。まして、漢中の地が、新たに魏の版図に加えられたので、都府の百官は、曹操を尊んで、「魏王の位に即いていただこうじゃないか」と、寄々、...
一 漢中王の劉玄徳は、この春、建安二十五年をもって、ちょうど六十歳になった。魏の曹操より六ツ年下であった。 その曹操の死は、早くも成都に聞え、多年の好敵手を失った玄徳の胸中には、一抹落莫の感なきを得なかったろう。敵ながら惜し...