一 下邳は徐州から東方の山地で、寄手第六軍の大将韓暹は、ここから徐州へ通じる道を抑え、司令部を山中の嘯松寺において、総攻撃の日を待っている。 もちろん、街道の交通は止まっている。野にも部落にも兵が満ちていた。 ――けれ...
一 関平も父の姿をさがし求めているうちに、朱然、潘璋の軍勢に生捕られた。そして荒縄にかけられて呉侯孫権の陣へひかれてゆく間も、父関羽の名を叫び、無念無念をくり返していた。 報を聞いて孫権は、翌る日、早暁に帳を出て、馬忠に関羽...
一 主従は相見て、狂喜し合った。 「おう、趙雲ではないか。どうして、わしがここにいるのが分った」 「ご無事なお姿を拝して、ほっと致しました。この村まで来ると、昨夜、見馴れぬ高官が、童子に誘われて、水鏡先生のお宅へ入ったと百...
一 その晩、山上の古城には、有るかぎりの燭がともされ、原始的な音楽が雲の中に聞えていた。 二夫人を迎えて張飛がなぐさめたのである。 「ここから汝南へは、山ひとこえですし、もう大船に乗った気で、ご安心くださるように」 ...
一 渦まく水、山のような怒濤、そして岸うつ飛沫。この夜、白河の底に、溺れ死んだ人馬の数はどれ程か、その大量なこと、はかり知るべくもない。 堰を切り、流した水なので、水勢は一時的ではあった。しかしなお、余勢の激流は滔々と岸を洗...
一 許都に帰ると、曹操はさっそく府にあらわれて、諸官の部員から徐州の戦況を聞きとった。 一名の部員はいう。 「戦況は八月以来、なんの変化もないようであります。すなわち丞相のお旨にしたがい、発向の折、親しく賜わった丞相旗を...
一 本来、この席へ招かれていいわけであるが、孔明には、玄徳が来たことすら、聞かされていないのである。 以て、周瑜の心に、何がひそんでいるか、察することができる。 「……?」 帳の外から宴席の模様をうかがっていた孔明...
一 劉備玄徳は、毎日、無為な日に苦しんでいた。 ここ河北の首府、冀州城のうちに身をよせてから、賓客の礼遇をうけて、なに不自由もなさそうだが、心は日夜楽しまない容子に見える。 なんといっても居候の境遇である。それに、万里...
一 漢中王の劉玄徳は、この春、建安二十五年をもって、ちょうど六十歳になった。魏の曹操より六ツ年下であった。 その曹操の死は、早くも成都に聞え、多年の好敵手を失った玄徳の胸中には、一抹落莫の感なきを得なかったろう。敵ながら惜し...
一 瑾の使いは失敗に帰した。ほうほうの態で呉へ帰り、ありのままを孫権に復命した。 「推参なる長髯獣め。われに荊州を奪るの力なしと見くびったか」 孫権は、荊州攻略の大兵をうごかさんとして、その建業城の大閣に、群臣の参集を求...
一 曹操は、侍者に起されて、暁の寒い眠りをさました。夜はまだ明けたばかりの頃である。 「何か」と、帳を払って出ると、 「城中より侯成という大将が降を乞うて出で、丞相に謁を賜りたいと陣門にひかえております」 と、侍者は...
張飛(ちょうひ)とは、『三国志』に登場する中国後漢末期から三国時代初期の武将です。主に劉備(りゅうび)の義兄弟として知られ、関羽(かんう)とともに「桃園の誓い」に参加した三人のひとりです。 生涯 張飛は涿県(たくけん)の出身で...
三国志(さんごくし)は吉川英治の小説、中国の後漢末から三国時代(紀元2世紀末〜3世紀)の歴史や英雄たちを描いた壮大な物語です。 【三国志について】 ・概要と時代背景 三国志は、後漢の末期(約180年頃)に起こった黄巾の乱を発...
一 楊奉の部下が、 「徐晃が今、自分の幕舎へ、敵方の者をひき入れて何か密談しています」 と、彼の耳へ密告した。 楊奉は、たちまち疑って、 「引っ捕えて糺せ」と、数十騎を向けて、徐晃の幕舎をつつみかけた。すると、...
一 さて。――日も経て。 曹操はようやく父のいる郷土まで行き着いた。 そこは河南の陳留(開封の東南)と呼ぶ地方である。沃土は広く豊饒であった。南方の文化は北部の重厚とちがって進取的であり、人は敏活で機智の眼がするどく働...
一 どうも煮えきらない玄徳の命令である。争気満々たる張飛には、それがもの足らなかった。 「劉岱が虎牢関でよく戦ったことぐらいは、此方とても存じておる。さればとて、何程のことがあろう。即刻、馳せ向って、この張飛が、彼奴をひッ掴ん...
河東(かとう)とは、中国における地名のひとつである。主に後漢〜三国時代には、河東郡として記録されている。黄河の東側、現在の山西省南部にあたり、当時は交通・軍事の要衝地であった。 この地域は歴史的に重要な拠点となり、多くの有力者や勢力...
一 「おい」 張飛はいった。大地に坐っている大勢の百姓町民へ向って、 「おまえ達は、退散しろ。これから俺がやることに、後で、かかり合いになるといけないぞ」 しかし百姓たちは、泥酔しているらしい張飛が、何をやりだすのか...
一 母と子は、仕事の庭に、きょうも他念なく、蓆機に向って、蓆を織っていた。 がたん…… ことん がたん 水車の回るような単調な音がくり返されていた。 だが、その音にも、きょうはなんとなく活気があり、歓...
一 郭淮の進言に面目をとどめた張郃は、この一戦にすべての汚名を払拭せんものと、意気も新たに、五千余騎を従えて、葭萌関に馬を進めた。 この関を守るは、蜀の孟達、霍峻の両大将であった。 張郃軍あらためて攻めきたるの報を得て...
一 玄徳が河北にいるという事実は、やがて曹操の耳にも知れてきた。 曹操は、張遼をよんで、 「ちか頃、関羽の容子は、どんなふうか」と、たずねた。張遼は、答えて、 「何か、思い事に沈んでおるらしく、酒もたしなまず、無口に...
一 その後、蜀の大軍は、白帝城もあふるるばかり駐屯していたが、あえて発せず、おもむろに英気を練って、ひたすら南方と江北の動静をうかがっていた。 ときに諜報があって、 「呉は魏へ急遽援軍を求めたらしいが、魏はただ呉王の位を...
一 樊城へ逃げ帰った残兵は、口々に敗戦の始末を訴えた。しかも呂曠、呂翔の二大将は、いくら待っても城へ帰ってこなかった。 すると程経てから、 「二大将は、残りの敗軍をひきいて帰る途中、山間の狭道に待ち伏せていた燕人張飛と名...
一 周瑜は、その後も柴桑にいて瘡養生をしていたが、勅使に接して、思いがけぬ叙封の沙汰を拝すると、たちまち病も忘れて、呉侯孫権へ、次のような書簡をしたためて送った。 天子、詔を降して、いま不肖周瑜に、南郡の太守に封ずとの恩命があり...
一 戦陣に在る日は、年を知らない曹操も凱旋して、すこし閑になずみ、栄耀贅沢をほしいままにしていると、どこが痛む、ここが悪いと、とかく体のことばかり訴える日が多かった。 いかんせん彼もすでに今年六十五という老齢である。体のまま...