好敵手

 
「違わぬ違わぬ」
 孫策は、振向きもしない。
 供の諸将は、怪しんで、
「味方の陣地は、北の道を降りるのですが」と、重ねていうと、
「だから南へ降りるのだ。ここまで来て、空しく北へ降りるのは遺憾千万ではないか。……事のついでに、この谷を降り、彼方の嶺をこえて、敵の動静を探って帰ろう」
 と孫策が始めて意を明かすと、さしも豪胆な武将たちも、びっくりした。
「えっ。この十三騎で?」
「ひそかに近づくには、むしろ小勢がよかろう。臆病風にふかれて危ぶむ者は、帰っても苦しゅうないぞ」
 そういわれては、帰る者も諫める者もあるわけはなかった。
 渓流へ下りて、馬に水飼い、また一つの嶺をめぐって、南方の平野をのぞきかけた。
 すると早くも、その附近まで出ていた劉繇の斥候が、
孫策らしい大将が、わずか十騎ばかりで、すぐあの山まで来ています」
 と、中軍――即ち司令部へ馳けこんで急報した。
「そんなはずはない」
 劉繇は、信じなかった。
 次の物見がまた、
「たしかに孫策です」と、告げてくると、
「しからば計略だ。――敵の謀略にのってかろがろしく動くな」と、なおさら疑った。
 幕将の中でも下級の組に、年若いひとりの将校がいた。彼はさっきから斥候の頻々たる報告を聞いて、ひとり疼々しているふうだったが、ついに、諸将のうしろから躍りでて叫んだ。
「天の与えというものです。この時をはずしてどうしましょう。どうか、それがしに、孫策を生け捕ってこいとお命じ下さい」
 劉繇は、その将校を見て、
「太史慈。――また、広言を吐くか」と、いった。
「広言ではございません。かかる時をむなしく過して、手をこまねいているくらいなら、戦場へ出ないほうがましです」
「行け。それほど申すなら」
「有難うぞんじます」と一礼して、太史慈は勇躍しながら、
「おゆるしが出た。われと思わん者はつづけ」
 と、たった一人、馬に跳び乗るが早いか、馳けだして行った。
 すると座中からまた一名の若い武将が立ち上がって、
孫策は、まことの勇将だ。見捨ててはおけない」と、馬を出して馳け去った。
 満座、みな大いに笑う。
 一方、孫策は、敵の布陣をあらまし見届けたので、
「帰ろうか」と、馬をかえしかけていた。
 ところへ、麓のほうから、
「逃ぐるなかれ! 孫策っ、逃ぐるなかれ!」と、呼ばわる者がある。
「――誰だ?」
 屹と振返ってみると、駒を躍らせて、それへ登って来た太史慈は、槍を横たえて、
「その内に、孫策はなきか」と、たずねた。
孫策はここにおる」
「おッ。そちか孫策は」
「しかり! 汝は?」
「東莱の太史慈とは我がことよ。孫策を手捕りにせんため、これまで参ったり」
「ははは。物ずきな漢」
「後に従う十三騎も、束になって掛るがよい。孫策、用意はいいか」
「何を」
 槍と槍、一騎と一騎、火をちらして戦うこと五十余合、見るものみな酔えるが如く、固唾をのんでいたが、そのうちに太史慈は、わざと馬を打って森林へ走りこんだ。孫策は、追いかけながら、その背へ向って、ぶうんと、槍を投げつけた。
 
 
 投げた槍は、太史慈の身をかすめて、ぶすっと、大地へ突き立った。
 太史慈はひやりとした。
 そしてなおなお、林の奥へと、駒をとばしながら、心のうちでこう思っていた。
孫策の人となりは、かねて聞いていたが、聞きしに勝る英武の質だ。うっかりすると、これはあぶない――」
 同じように。
 彼をうしろから追ってくる孫策もまた、心中、
「これは名禽だ。手捕りにしてわが籠に飼わねばならん。どうしてこんないい若武者が、劉繇などに仕えていたのかしら?」
 そこで孫策は、
「おオオい、待てえっ。――名も惜しまぬ雑兵なら知らぬこと、東莱の太史慈とも名乗った者が、汚い逃げざまを、恥かしくないのか。返せ返せ。返さねばわが生涯、笑いばなしとして、天下に吹聴するぞ」と、わざと辱めた。
 太史慈は、耳もないように、走っていたが、やがて嶺をめぐって、裏山の麓まで来ると、
「やあ孫策。やさしくも追ってきたな。その健気に愛でて勝負してやろう。ただし、改めて我れに立ちむかう勇気があるか」と、馬をかえして云った。
 馳け寄せながら孫策は、
「汝は、口舌の匹夫で、真の勇士ではあるまい。そういいながらまた逃げだすなよ」
 と、大剣を抜きはらった。
「これでも、口舌の徒か」
 太史慈は、やにわに槍をくりのばして、孫策の眉間をおびやかした。
「あっ」
 孫策は、とっさに馬のたてがみへ顔を沈めたが、槍は、盔の鉢金をカチッとかすめた。
「おのれ!」
 騎馬戦のむずかしさは、たえず手綱を上手に操って、敵の背後へ背後へと尾いてまわりながら馳け寄せる呼吸にある。
 ところが、太史慈は、稀代な騎乗の上手であった。尾側へ狙けいろうとすると、くるりと駒を躍らせて、こっちの後ろへ寄ってくる。あたかも波上の小舟と小舟の上で斬りむすんでいるようなものである。従って、腕の強さばかりでなく、駒の駈引きも、虚々実々をきわめるので、勝負はなかなか果てしもない。無慮百余合も戦ったが、双方とも淋漓たる汗と気息にもまれるばかりであった。
「えおうッ」
「うオーッ」
 声は、辺りの林に木魂して、百獣もために潜むかと思われたが落つるは片々と散る木の葉ばかりで、孫策はいよいよ猛く、太史慈もますます精悍を加えるのである。
 どっちも若い体力の持主でもあった。この時孫策二十一歳、太史慈三十歳。――実に巡り会ったような好敵手だった。
「組まねばだめだ」
 孫策が、そう考えた時、太史慈も心ひそかに、
「長びく間に、孫策の将士十三騎が追ってくると面倒」
 と、勝負を急ぎだした。
 だっと、両方の鐙と鐙とがぶつかったのは、両人の意志が、期せずして、合致したものとみえる。
「喝ッ」
 と、突出してくる槍を、孫策は交わして柄を抱きこみ、とっさ、真二つになれと相手へ見舞った剣の手元は、これも鮮やかに、太史慈の交わすところとなって、その手頸をにぎり取られ――おうっッ――と引き合い、押し合ううちに、二つの体は、はね躍った馬の背から大地へころげ落ちていた。
 空身となった奔馬は、たちまち、何処ともなく馳け去ってしまう。
 組んず、ほぐれつ、太史慈と孫策とは、なお揉み合っていたが、そのうち孫策は、よろめきざま太史慈が背に挿していた短剣を抜き取って、突き伏せようとしたが、
「さはさせじ」
 と、太史慈はまた、孫策の盔を引ッつかんで、離さなかった。
 
 
「太史慈が今、ついそこで、敵の孫策と一騎打ちしているが、いつ勝負がつくとも見えません。疾くご加勢あれば、生擒れましょう」
 一騎、劉繇の陣へ飛んできて、こう急を告げた。
 劉繇は、聞くとすぐ、
「それッ」と、千余騎をそろえて、漠々と馳けはしって行った。
 金鼓は地をゆるがし、またたく間に、ふもとの林へ近づいた。
 太史慈と孫策とは、その時まだ、ガッキと組み合ったまま、互いに、焔のような息をはずませていた。
「しまった!」
 孫策は、近づく敵の馬蹄のひびきに、一気に相手を屠ってしまおうと焦ったが、太史慈の手が、自分のきている盔をつかんだまま離さないので、
「む、むッ!」
 獅子の如く首を振った。
 そして、相手の肩越しに、太史慈が肩に懸けている短剣の柄を握って孫策も離さなかった。
 そのうちに、盔がちぎれたはずみに、二人とも、勢いよくうしろへ仆れた。
 孫策の盔は、太史慈の手にあった。
 また、太史慈の短剣は、孫策の手にあった。
 ところへ――
 劉繇の騎兵が殺到した。
 同時に、
「君の安危やいかに?」と、孫策の部下十三騎の人々もここへ探しあてて来た。
 当然、乱軍となった。
 しかし衆寡敵せず、孫策以下の十三騎も、次第に攻めたてられて、狭い谷間まで追いつめられたが、たちまち、神亭廟のあたりから喊の声が起って、一隊の精兵が、
「オオ。救えッ」
 と、雲のうちから馳け下って来た。
 ――われには神の加護あり……
 と、孫策がいったとおり、光武帝の神霊が、早くも奇瑞をあらわして味方したもうかと思われたが、それは彼の幕将周瑜が、孫策の帰りがおそいので、手兵五百を率いてさがしに来たものだった。
 そしてすでに陽も西山に沈もうとする頃、急に、黒雲白雲たちこめて、沛然と大雨がふりそそいできた。
 それこそ神雨だったかも知れない。
 両軍、相引きに退いて、人馬の喚きも消え去った後、山谷の空には、五彩の夕虹がかかっていた。
 明くれば、孫策は、
「きょうこそ、劉繇が首を見、太史慈を生捕って帰ろうぞ」
 とばかり暁に早くも山を越えて、敵の陣前へひた押しに攻めよせ、
「やあ、見ずや、太史慈」と、高らかに呼ばわった。
 きのうの一騎打ちに、彼の手から奪い取った例の短剣を、旗竿に結びつけて、士卒に高く打振らせていた。
「武人たる者が、大事の剣を取落して、命からがら逃げ出して、恥とは思わぬか。――見よや、敵も味方も。これなん太史慈の短剣なるぞ」
 どっと笑って、辱めた。
 すると劉繇の兵の中からも、一本の旗竿が高く差し伸べられた。見ればその先には、一着の盔がくくりつけてある。
「やあ、孫策は無事なのか」
 陣頭に馬をすすめて、太史慈はほがらかに云い返した。
「君よ、見給え。ここにあるのは君の頭ではないか。武士たる者が、わが頭を敵にわたし、竿頭の曝し物とされては、もはや利いたふうな口はきけない筈だがな。……あははは。わははは」
草莽の巻 第10章
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