酒中別人
一
「お聞き及びのとおり、にわかに荊州へ立ち帰ることとなった。明日、関門をまかり通る」
と、使いをやって開門を促しておいた。
高沛は手を打って、
と、ここでは二人が手に唾して夜の明けるのを待っていた。
すると、一陣の山風に、旗竿の竿が折れた。玄徳は、眉を曇らせて、
「や、や。これは何の凶兆か」
と、駒を止めた。
龐統は、一笑して、
「これは天が前もって凶事を告知してくれたものです。故に、凶ではありません。むしろ吉兆というべきでしょう。――思うに楊懐、高沛がきょうこそ君を刺殺せんと待ちうけているものと考えられる。わが君、ご油断あそばすな」
「そのことならば」
すでに、関門の大廈が、近々と彼方の山峡に見えた頃である。
楽を奏しながら、錦繍の美旗をかかげて、彼方から来る一群の軍隊がある。
真先に来た大将がいった。
龐統が出て挨拶した。
「いずれ後刻、陣中お見舞に伺う由ですが、とりあえず、酒肴をお目にかけよとのことに、あれへ品々を担わせて来ました」と、おびただしい酒の瓶、小羊、鶏の丸焼きなどを、それへ並べて帰った。
「お名残り惜しいことです。せめて今日は、親しくお杯を賜わりたいもので」
と、素知らぬ顔をもって陣中見舞に訪れた。
「さあ、どうか」
迎え入れて、幕舎の酒宴は賑わった。――玄徳が常に似合わずよく飲むので、龐統は心配していたが、そのあいだに、かねて云い含めておいた通り、関平、劉封の二人は、席を抜けて、外にいた三百余の関門兵を、遠くへ引退がらせてしまった。
そして引返すと二人は幕の陰からおどり出て、
「刺客っ。神妙にしろ」
「何をするかっ。客に対して」
「これを何に使うつもりで来たか」
と、突きつけると、
「剣は武人の護りだっ」
と、屈せずにいう。
「武人の護りとは、こういう正々堂々の剣をいうのだ。この護りは、以て、卑劣なる汝ら害獣を天誅するために研がれている。さ、斬れ味をみろ」
と、幕外へひき出して、有無をいわせず、二つの首を落してしまった。
二
「わが君。何を無言にふさぎこんでおられますか」
「そんなお気の弱いことで、よく今日まで、百戦を経ておいでになりましたな」
「戦場はまたちがう」
「ここも戦場です。まだ涪水関は占領していません」
「そっくり捕虜にしてあります。いま一網にして酒をのませ、肴を喰らわせているので、彼らは狂喜している様子で」
「なぜ擒人の兵にそんな馳走するのか」
「黄昏まで、歓楽させておきましょう。その後、彼らを用いる一計がありますから」
日の暮るるまで、幕舎のまわりでは、歌曲の声が湧き、時々歓声があがり、酒宴はやまずに続いているような態であった。
「星が出た」
一吹の角笛とともに、龐統は一軍をあつめて、徐々、涪水関の下へ近づいて行った。
先頭には、捕虜の関門兵三百を立たせていた。この者どもはもう完全に寝返って、龐統の薬籠中のものになっているらしい。岩乗絶壁のような鉄門の下に立ってこう呶鳴った。
「楊将軍、高将軍のお戻りであるぞ。開門開門」
昼間の出来事は何も知らない関門の蜀兵は、声に応じて、
「おうっ」
と、鉄扉を八文字に開いた。
「すすめっ」
喊声をあげながら、怒濤の兵は関門へ突入した。ほとんど、衂らずに、涪水関は占領された。
玄徳は直ちに、諸軍をわけて要害の部署につかせ、
「蜀すでにわが掌にあり」
と、三度の凱歌をあげさせた。
山谷のどよめく中に、庫中の酒は開かれ、将士は祝杯をほしいままにした。
玄徳も昼から酒に親しんでいたので、夜半から暁にかけて、幕僚の将を会して杯をかさねると、泥のように酔ってしまった。
大きな酒瓶にもたれて、彼は前後も知らず眠り始めた。ふと、眼をさましてみると、龐統はまだ独り残って痛飲している。
「まだ、夜は明けぬか」
龐統は笑って、
「とうに小鳥がさえずっていますよ。どうです、もう一献」
「いや、夜が明けたら、酒どころではない」
「でも、人生の快味は、こういう時ではありませんか」
「そうだ。ゆうべは実に愉快だったな。酒を飲みつつ一城を奪ったようなものだ」
「ヘエ、そんなに愉快でしたか」
と、龐統は例のひしげた鼻に皮肉な小皺をよせて、
「――人の国を奪って、楽しみとするは、仁者の兵にあらず、あなたらしくもありませんな」
玄徳は酔後の顔を逆さまになであげられたような気がしたのだろう。むっとして色をなしてすぐ云った。
大睡の後、眼をさまして、衣を着かえていると、近侍の者から、
「今朝ほどは、大へんなご剣幕で、さすがの龐統も、胆をちぢめて引退がりましたよ」
と、酔態を語られて、
「えっ、そんなに彼を叱ったか」
「先生。今暁の無礼は、酔中の不覚、ゆるしてください」
といった。
「君臣ともに、酔中の浮魚。戯歌水游、みな酒中のこと。酒中別人です、酒中別人です。わたくしの皮肉もお気にかけて下さるな」
と、共々、手をたたいて、朗らかに笑った。