赤兎
赤兎(せきと)とは
由来と歴史
人物との関わり
有名なエピソード
ついに相引きの形で引きわかれたが、さすがに若くて猛気な関平も、肩で大息をつきながら、満身に湯気をたてていた。 関羽は合戦の様子を聞いて、次にはかならず関平が負けると思ったらしく、にわかに、その翌朝、部下の廖化に城攻めの方をあずけ、自分は、関平の陣へ来てしまった。 そして、きょうは自分が、龐徳を誘うから、父の戦いぶりを見物しておれと告げて、愛馬赤兎を、悠々両軍のあいだへ進めた。二。 戦場の微風は、関羽の髯をそよそよとなでていた。
獅子の如く猛然と、声に応じて駈け寄ってきたのが、その孟獲と見えた。そのときの彼の扮装を原著にはこう描写している。――孟獲、旗ノ下に、捲毛赤兎ノ馬ヲオドラセ、頭ニ羽毛宝玉冠ヲ載キ、身に瓔珞紅錦ノ袍ヲ着、腰ニ碾玉ノ獅子帯ヲ掛ケ、脚ニ鷹嘴抹緑ノ靴ヲ穿ツ。昂然トシテ左右ヲ顧ミ、松紋廂宝ノ剣ヲ手ニカケテ曰ウ。「中国の人間どもは、孔明孔明とみな怖れるが、この孟獲の眼から見れば、一匹の象、一匹の牝豹にも足りない。
」 。「あります。私に、将軍の愛馬赤兎と一嚢の金銀珠玉をお託しください」 。「それをどうするのか」 。「幸いにも、私は、呂布と同郷の生れです。
「何をお迷いなされますか。たかの知れた曹操や袁紹輩の企てなど片づけるに何の造作がありましょうや。こんな時、それがしをお用い下さらずして、何のために、赤兎馬を賜わったのですか」 。 と、むしろ責めるような語気で、なお云った。「この呂布を、お差向けねがいます。
曹操は、遊軍として臨んだ。味方の崩れや弱みを見たら、随意に、そこへ加勢すべく、遊兵の一陣を擁して、控えていた。「……来たな」と、北軍の呂布は、例の名馬赤兎にまたがり、虎牢関の前衛軍のうちから、悠々、寄手の備えをながめていた。 呂布、その日のいでたちは。 朱地錦の百花戦袍を着たうえに、連環の鎧を着かさね、髪は三叉に束ね、紫金冠をいただき、獅子皮の帯に弓箭をかけ、手に大きな方天戟をひっさげて、赤兎馬も小さく見えるばかり踏みまたがった容子は――寄手の大軍を圧して、 。
「あの家には、古来から名剣宝珠が多く伝わっているとは聞いたが、洛陽から遷都して来た後も、まだこんな佳品があったのか」 。 彼は、武勇絶倫だが、単純な男である。歓びの余り、例の赤兎馬に乗って、さっそく王允の家へやってきた。 王允は、あらかじめ、彼が必ず答礼に来ることを察していたので、歓待の準備に手ぬかりはなかった。「おう、これは珍客、ようこそお出でくだされた」と、自身、中門まで出迎えて、下へも置かぬもてなしを示し、堂上に請じて、呂布を敬い拝した。
「いや、これはどうも」と、呂布は、機嫌のよい顔に、そろそろ微紅を呈して、「自分のようながさつ者を、大官が、そんなに愛していて下さろうとは思わなかった。身の面目というものだ」 。「いやいや、計らずも、お訪ねを給わって、名馬赤兎を、わが邸の門につないだだけでも、王允一家の面目というものです」 。「大官、それほどまでに、この呂布を愛し給うなら、他日、天子に奏して、それがしをもっと高い職と官位にすすめて下さい」 。「仰せまでもありません。