臥龍の岡
一
さて。
× × ×
「骨肉の別れ、相思の仲の別れ。いずれも悲しいのは当然だが、男子としては、君臣の別れもまた断腸の一つだ。……ああ、きょうばかりは、何度思い止まろうかと迷ったか知れぬ」
徐庶は、駒を早めていた。
今なお、玄徳の恩に、情に、うしろ髪を引かれながら――。
だが、都に囚われている母の身へも、心は惹かれる。矢のように急がれる。
徐庶の心は忙しかった。
また、そんな中でも、後に案じられるもう一つのことは、別れぎわに自分から玄徳へ推薦しておいた諸葛孔明のことである。かならず主君玄徳は、近日、孔明を訪れるであろうが、果たして、孔明が請いを容れるかどうか?
「彼のことだ、恐らく、容易にはうごくまい」
そう考えつくと、彼は、にわかに道をかえて、襄陽の西郊へ廻って行った。
臥龍の岡は、やがて彼方に見えてくる。龍が寝ているような岡というのでその名がある。
が、園内は寂として、木の葉の落ちる音ばかりだ。
しばらくたたずんでいると、童子の歌う声がする。
蒼天は円蓋の如し
陸地、碁局に似たり
世人黒白して分れ
往来に栄辱を争う
「おうい、童子。ここを開けてくれ。先生はいらっしゃるか。――わしだよ。徐庶が来たと取次いでくれ」
外の客は、しきりと訪れていたが、童子はなお気づかないものの如く、
栄うる者は自ら安々
辱めらるる者は定めて碌々
南陽に隠君有り
高眠臥して足らず
と、歌いながら、梢の鳥の巣を仰いでいた。
すると、どこやらで、童子童子と呼ぶ声がして、門外に客のあることを教えていた。
「え。誰か来たのかい」
童子は、飛んできた。――そして内から柴門をあけて、客のすがたを見ると、
「ああ、元直さまか」と、馴々しく云った。
徐庶は、傍らの木へ、駒をつないで、
「先生はいられるかね?」
「おいでになります」
「お書斎か」
「ええ」
「おまえはなかなか歌がうまいな」
園の小径を、奥へ歩いてゆく徐庶のあとから、童子は口達者にそういった。徐庶は、そういわれて、心にかえりみた。――かつての破衣孤剣の貧しい自分のすがたを。――そしてここの簡素な家の主に対して、何か、会わないうちから気恥かしい心地をおぼえた。
二
童子は、茶を煮る。
客と主は、書斎のうちに、対話していた。
「秋も暮れますなあ」
徐庶がいう。
孔明は、膝を抱いて、
「冬を待つばかりだ。すっかり薪も割ってある」
と、いった。
「徐兄。きょうのお越しは、何か用ありげらしいが、そも、なんのために、孔明の廬へお立ち寄りか」
「されば」と、ようやく、緒口を得て、
「はあ。そうでしたか」
「ところが、田舎にのこしておいた老母が、曹操の部下にひかれて、いまはひとり都に囚われの身となっている。……その老母より綿々とわびしさを便りして参ったので、やむなく、主君にお暇をねがい、これより許都へ上ろうという途中なのです」
「それは、よいことではないですか。身の仕官など、いつでもできる。ご老母をなぐさめておあげなさい」
「ついてはです。――お別れにのぞんで、この徐庶から折入って、おねがいしておきたい儀があります。お聞き入れ賜わらぬか」
「まあ、仰っしゃってごらんなさい」
「ほかではありませんが、今日、ご主君自身、遠く途中まで見送って下されたが、その別れぎわに、実は、平素から心服しているため、隆中の岡に、かかる大賢人ありと、口を極めて、先生の大方を、ご推薦しておいたわけです。――で、まことにご迷惑でしょうが、やがて玄徳公からお沙汰のあった節は、枉げても、召しに応じていただきたい。かならず、ご辞退なきように、旧友の誼にすがっておねがい申し上げる」
徐庶は、学歴や年齢からも、はるかに孔明よりは先輩だったが、今では孔明を先生と称して、心から尊敬を払っているのである。しかもこの事たるや、容易ならぬ問題でもあるし、一朝一夕に孔明が承諾しようとも考えられないので、衷情を面にあらわして、なお縷々その間の経緯やら自己の意見をも併せのべた。
すると、終始、半眼に睫毛をふさいで、静かに聞いていた孔明は、語気勃然と起って、
「徐兄。――ご辺はこの孔明を、祭の犠牲に供えようというおつもりか」
そう云い捨てるやいな、袖を払って、奥の室へかくれてしまった。
徐庶は、はっと、色を変じた。
祭りの犠牲――
思い当ることがある。
(子よ、犠牲になる牛を見ずや。首に錦鈴を飾り、美食を飼わしているが、曳いて大廟の祭壇に供えられるときは、血をしぼられ、骨を解かれるではないか)
「いつか詫びる日もあろう」
彼はぜひなく席を去った。外に出て見れば、黄昏の空に落葉飄々と舞って、はや冬近いことを想わせる。
三
「ご恩をふかく謝します――」と徐庶はまず拝礼して、
「して、母はどこにおりましょうか。願わくは、一刻も早く、遠路より来た愚子に対面をおゆるし下さい」と、いった。
曹操は、幾度もうなずいて見せたが、
「お身の老母は、つねに程昱に守らせて、朝夕、何不自由なくさせてあるが、今日はご辺がこれに参るとのことに、彼方の一堂に迎えてある。後刻ゆるりと会うもよし、またこれからは、長く側に仕えて、子たるの道をつくせ。予もまたそちの側に在って、日々、有義な教えを聞きたい」
「丞相の慈念をこうむり、徐庶は愧感にたえません」
「だが、ご辺のような、孝心に篤い、そして達見高明の士が、なんで身を屈して玄徳などに仕えたのか」
「偶然なる一朝の縁でございましょう。放浪のうち、ふと新野で拾い上げられたに過ぎません」
「あの内においでなされる」
すると、彼の老母は、さも意外そうに、わが子のすがたを見まもって訊ねた。
「えっ。不審しいことを仰っしゃいます。母上よりのお手紙に接し、主君よりおいとまを乞うて夜を日についでこれへ駈けつけて参りましたものを」
「何をうろたえて。……この母の胎から生れ出ながら、年三十有余にもなって、まだこの母が、そのような文を子に書く母か否かわからぬか」
「でも、……このお手紙は」と、出発の前に、新野で受け取った書簡を出してみせると、老母は、もってのほか怒って、顔の色まで変じ、
「これ! 元直」と、身を正して叱った。
「そなたは、幼き頃から儒学をおさめ、長じては世上を流浪しやることも十数年、世上の艱苦、人なかの辛苦も、みな生ける学びぞと、常にこの母は、身の孤独も思わず、ただただそなたの修業の積むことのみ、陰で楽しみにしていたに――、このような偽文を受け取って、その真偽も正さず、大切なご主君を捨てて来るとは何ごとか」
「あっ……では……それは母上のお筆ではありませんでしたか」
「孝に眼をあけているつもりでも、忠には盲目。そちの修業は片目とみゆる。いま玄徳さまは、帝室の冑たり、英才すぐれておわすのみか、民みなお慕い申しあげておる。そのような君に召しつかわれ、そちの大幸、母も誉れぞと、ひそかに忠義を祈っていたものを……ええ……匹夫のような」
と身をふるわせて、よよと泣いていたが、やがて黙然と、帳の陰へかくれたきり姿も見せなかった。
徐庶も、慚愧に打たれて、母の厳戒を心に噛み、自身の不覚を悔い悩んで、ともに泣き伏したまま悩乱の面も上げずうっ伏していたが、ふと帳のうしろで、異様な声がしたので、愕然、駈け寄ってみると、老母はすでに自害して死んでいた。
「母上っ……。母上っ」
徐庶は、冷たい母の空骸をかかえて、男泣きにさけびながら、その場に昏絶してしまった。