南陽
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「南陽」登場回数
合計: 38回「南陽」が登場する場面
7件両虎競食の計
「近来、第一の歓びだ」と、いった。 士を愛すること、女を愛する以上であった曹操が、いかに徐晃を優遇したかいうまでもなかろう。 楊奉、韓暹のふたりは、奇襲を試みたが、徐晃は敵方へ走ってしまったし、所詮、勝ち目はないと見たので、南陽(河南省)へと落ちのび、そこの袁術を頼って行った。 ――かくて、帝の御車と、曹操の軍は、やがて許昌の都門へ着いた。 ここには、旧い宮門殿閣があるし、城下の町々も備わっている。
于吉仙人
孫策は、典獄の首を刎ねて、まだ鞘にも納めない剣をさげたまま嘲笑って、 。「貴様たちは、史書を読んで、史を生かすことを知らんな。むかし南陽の張津は、交州の太守となりながら、漢朝の法度を用いず、聖訓をみな捨ててしまった。そして、常に赤き頭巾を着、琴を弾じ、香を焚き、邪道の書を読んで、軍に出れば不思議の妙術をあらわすなどと、一時は人に稀代な道士などといわれたものだが、たちまち南方の夷族に敗られて幻妙の術もなく殺されてしまったではないか。要するに、于吉もこの類だ、まだ害毒の国全体に及ばぬうちに殺さ...
八陣展開
時を同じゅうして、孔明も蜀軍を分けて、四輪車をすすめ、羽扇をにぎって近々とその姿を敵にみせていた。 司馬懿は大音に呼びかけた。「もと南陽の一耕夫、身のほどを知らず、天渾の数をわきまえず、みだりに師を出して、わが平和の民を苦しむることの何ぞ屡〻なるや。今にして覚らずんば、汝の腐屍もまた、祁山の鳥獣に饗さるる一朝の好餌でしかないぞ」 。「そういうは仲達であるか。
出師の表
すなわち漢室の隆んなる、日をかぞえて待つべき也。 転じて孔明の筆は、自己と先帝玄徳と相知った機縁を追想し、その筆は血か、その筆は涙か、書きつつ彼も熱涙数行を禁じ得ないものがあったのではなかろうか。――臣はもと布衣、みずから南陽に耕し、いやしくも性命を乱世に全うし、聞達を諸侯に求めざりしに、先帝臣の卑鄙なるを以てせず、猥におんみずから枉屈して、三たび臣を草廬にかえりみたまい、臣に諮るに当世の事を以てしたもう。これによりて感激し、ついに先帝にゆるすに駆馳を以てす。後、傾覆にあい、任を敗軍の際にう...
出廬
「荊州は、人口が少ないのでなく、実は戸籍にのっている人間が少ないのです。ですから、劉表にすすめて、戸簿を整理し、遊民を簿冊に入れて、非常の際は、すぐ兵籍に加え得るようにしなければいけません」といった。 また自分が、保券の証人となって、南陽の富豪大姓黽氏から、銭千万貫を借りうけ、これをひそかに劉備の軍資金にまわして、その内容を強化した。 とまれ、孔明の家がらというものは、その叔父だった人といい、また現在呉に仕えている長兄の諸葛瑾といい、彼の妻黄氏の実家といい、当時の名門にちがいなかった。しかも...
孔明を訪う
さかえる者は、安々たり 。敗るるものは、碌々とあえぐ。ここ南陽はべつの天地 。高眠して臥すは誰ぞ 。誰ぞ、臥してまだ足らない 。
孫権立つ
姓を諸葛、名を瑾という。 孫権に、身の上をたずねられて、その人は語った。「郷里は、瑯琊の南陽(山東省・泰山の南方)であります。亡父は諸葛珪と申して、泰山の郡丞を勤めていましたが、私が洛陽の大学に留学中亡くなりました。その後河北は戦乱がつづいて、継母の安住も得られぬため、継母をつれて江東に避難いたし、弟や姉は、私と別れて、荊州の伯父のところで養われました」 。