南陽
南陽(なんよう)とは
土地の歴史
南陽郡は前漢に設置され、後漢期には最も人口が多い郡とされるほどの大都市圏だった。農業が盛んで、鉄や塩などの産業資源にも恵まれていた。また交通の要衝でもあり、北は洛陽へ、南は荊州へと通じる道が整備されていた。
関連する人物
・袁術:一時南陽を本拠とし、ここから勢力を広げようとした。
三国志での文脈
「洛陽軍万歳」 。「朱雋大将軍万歳」 。 南陽の諸郡もことごとく平定した。 かの大賢良師張角が、戸ごとに貼らせた黄いろい呪符もすべてはがされて、黄巾の兇徒は、まったく影をひそめ、万戸泰平を謳歌するかに思われた。 しかし、天下の乱は、天下の草民から意味なく起るものではない。
だが、献帝はまだ年少である。何事も董卓の意のままだった。 即位の式がすむと、董卓は自分を相国に封じ、楊彪を司徒とし、黄琬を太尉に、荀爽を司空に、韓馥を冀州の牧に、張資を南陽の太守に――といったように、地方官の任命も輦下の朝臣の登用も、みな自分の腹心をもって当て、自分は相国として、宮中にも沓をはき、剣を佩いて、その肥大した体躯をそらしてわが物顔に殿上に横行していた。 同時に。 年号も初平元年と改められた。
軍簿の到着に筆をとりながら、重なる味方だけを拾ってみると、その陣容は大したものであった。 まず―― 。 第一鎮として、後将軍南陽の太守袁術、字は公路を筆頭に、 。 第二鎮 。 冀州の刺史韓馥 。
――即ち、その時から彼は平原の相として、ようやく、一地方の相たる印綬を帯びたのだった。 × × × 。 ここに、南陽の太守で、袁術という者がある。 袁紹の弟である。 かつては、兄袁紹の旗下にあって、兵糧方を支配していた男だ。
彼が、結ぶと、董卓もまた、その肥満した体躯を、ゆらりと上げて云った。「張温を誅したのは、ゆえなきことではない。彼は、予に叛いて、南陽の袁術と、ひそかに通謀したからだ。天罰といおうか、袁術の使いが密書を持って、過って呂布の家へそれを届けてきたのじゃ。――で彼の三族も、今し方、残らず刑に処し終った。
「近来、第一の歓びだ」と、いった。 士を愛すること、女を愛する以上であった曹操が、いかに徐晃を優遇したかいうまでもなかろう。 楊奉、韓暹のふたりは、奇襲を試みたが、徐晃は敵方へ走ってしまったし、所詮、勝ち目はないと見たので、南陽(河南省)へと落ちのび、そこの袁術を頼って行った。 ――かくて、帝の御車と、曹操の軍は、やがて許昌の都門へ着いた。 ここには、旧い宮門殿閣があるし、城下の町々も備わっている。
「どうするのか」 。「袁術へ、使いを馳せて、こういわせます。――玄徳、近ごろ天子に奏請して、南陽を攻め取らんと願い出ていると」 。「むム」 。「また、一方、玄徳が方へも、再度の勅使を立て――袁術、朝廷に対して、違勅の科あり、早々、兵を向けて南陽を討つべしと、詔を以て、命じます。