河内
河内(かわち)とは
土地の歴史
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「咎められるな」 。 人民は恟々と、道をひらいて避けた。 その頃、并州の丁原、河内の太守王匡、東郡の喬瑁などと諸将がおくればせに先の詔書に依って上洛して来たが、董卓軍の有様を見て皆、なすことを知らなかった。 後軍の校尉鮑信は、ある時、袁紹に向ってそっとささやいた。「どうかしなければいかんでしょう。
兗州の刺史劉岱 。 第五鎮 。 河内郡の太守王匡 。 第六鎮 。 陳留の太守張邈 。
「あれこそ、呂布か」と、眼をみはらせるばかりだった。二。 そのうちに寄手の陣頭から、河内の太守王匡、その部下の猛将方悦と共に、 。「呂布を討って取れ」 。 と、呼ばわりながら、河内の強兵をすぐって、呂布の軍へ迫った。
負け惜しみでなくそう思った。 一万の兵、余すところ、わずか五百騎、しかし、再起の希望は、決して失われていない。「ひとまず、河内郡に落ちのびて、後図を計るとしよう」 。 曹操はいった。 夏侯惇、曹仁たちも、 。
さて、その後。 ――焦土の洛陽に止まるも是非なしと、諸侯の兵も、ぞくぞく本国へ帰った。 袁紹も、兵馬をまとめて一時、河内郡(河南省・懐慶)へ移ったが、大兵を擁していることとて、立ちどころに、兵糧に窮してしまった。「兵の給食も、極力、節約を計っていますが、このぶんでゆくと、今に乱暴を始め出して、民家へ掠奪に奔るかもしれません。さすれば将軍の兵馬は、たちまち土匪と変じます。
」 。 焦躁の気を眉にあつめて、不落の敵城を見つめたまま、独り沈思していると、吹雪を衝いて、陣へたどり着いた早打ちがあった。「河内の張楊は、呂布と交誼があるので後詰して、呂布を助けんと称し、兵をうごかしました。ところが手下の楊醜が、たちまち心変りして張楊を殺し、その軍を奪ったところから大混乱となり、軍の眭固と申す者が、またまた、張楊の讎といって、楊醜を討ち殺し、人数をひきいて、犬山方面まで動いて参りました」との注進であった。 曹操は、折も折と、 。
(事あれば、いつでも)という、いわゆる臨戦態勢をととのえていた。 毛玠が東曹掾に任じられ、崔琰が西曹掾に挙げられたのもこの頃である。わけて出色な人事と評されたのは、主簿司馬朗の弟で、河内温の人、司馬懿、字を仲達というものが、文学掾として、登用されたことだった。 その司馬仲達は、もっぱら文教方面や選挙の吏務にあったので文官の中には、異色を認められていたが、軍政方面には、まだ才略の聞えもなかった。 やはり軍部に重きをなしているのは依然、夏侯惇、曹仁、曹洪などであった。