北平
北平(ほくへい)とは
歴史
北平郡は漢代に設置された郡で、遊牧民族との防衛拠点としての役割を担った。中国の北辺に位置するため軍事的価値が高く、辺境防衛の要衝とされた。
三国志における扱い
後漢末、黄巾の乱の際に各地で反乱が起きたとき、北平でも討伐軍が派遣された。劉備が義勇軍を率いて初陣を飾った地としても知られる。幽州牧の劉虞が治める地域の一部であり、公孫瓚など北方の群雄が勢力を広げる舞台ともなった。
関連する人物
・劉備(義勇軍を率いて黄巾討伐に参加した)
と、いう頼もしい者が現れてきたりした。 もっとも、その兄弟は、曹家がまだ譙郡にいた頃、曹家に養われて、養子となっていた者であるから、真っ先に馳せつけて来るのは当然であったが、そのほか毎日、軍簿に到着をしるす者は、枚挙にいとまがないくらいであった。 山陽鉅鹿の人で李典、字は曼成という者だの――徐州の刺史陶謙だの――西涼の太守馬騰だの、北平太守の公孫瓚だの――北海の太守孔融なんどという大物が、おのおの何千、何万騎という軍を引いて、呼応して来た。 彼の帷幕にはまた、曹仁、曹洪のふたりの兄弟も参じ...
よろしく、この国土を奪取して、将来の地盤となさるべきではありますまいか」 。「それはもとより望むところだが、どういう計をもってこれを奪るか」 。「ひそかに北平(河北省・満城附近)の太守公孫瓚へ使いを派し、冀州を攻って、これを割け奪りにしようではないか。――そういってやるのです」 。「むム」 。
と、策を議して、北海(山東省・寿光県)に急使を派し、孔子二十世の孫で泰山の都尉孔宙の子孔融に援けを頼んだ。 折からまた、黄巾の残党が集結して、各所で騒ぎだしていた。北平の公孫瓚も、国境へ征伐に向っていたが、その旗下にあった劉備玄徳は、ふと徐州の兵変を聞いて、義のため、仁人の君子といううわさのある陶謙を援けに行きたいと、公孫瓚にはなしてみた。 公孫瓚は、むしろ不賛成で、 。「よしてはどうだ。
無造作にひらいて、曹操は読み下していたが、秋の日に萱が鳴るように、からからと笑った。「虫のいい交渉だ。――先ごろ、この曹操が都をあけていた折はあわよくば洛内に軍を進めんとうかがったりしながら、この書面を見れば、北平の公孫瓚と国境の争いを起したによって、兵糧不足し、軍兵も足りないから、合力してくれまいか――という申入れだ。しかも、文辞傲慢、この曹操を都の番人とでも心得ておるらしい」 。 不快となると、はっきり不快な色を面上にみなぎらせる。
まず、閣下の健勝を祝します。次には、 。閣下がこの度、北平(河北省・満城附近)の征伐を思い立たれたご壮図に対しては、自分からも満腔の誠意をもって、ご必勝を祈るものであります。馬匹糧米など軍需の品々も、できる限り後方よりご援助しますから、河南には少しもご憂慮なく、一路北平の公孫瓚をご討伐あって万民安堵のため、いよいよ国家鎮護の大を成し遂げられんことを万祷しております。ただ、お詫びせねばならぬ一事は、不肖、守護の任にある許都の地も、何かと事繁く、秩序の維持上、兵を要しますので、折角ながら兵員を...
袁紹が虚実をよく視てきたか」と、その報告を求めた。 満寵は答えて、 。「河北には、別して変った事態も起っておりませんが、北平の公孫瓚は、袁紹のために亡ぼされました」 。 聞いて驚いたのは座にあった玄徳である。「えっ、公孫瓚が亡ぼされましたと。
そこで、袁術が、起死回生の一策として、思いついたのが、河北の兄袁紹へ、持て余した帝号と、伝国の玉璽を押しつけて、いよいよ身を守ることだった。 袁紹には、もとより天下の望みがある。 それにまた先頃、北平の公孫瓚を亡ぼして、一躍領土は拡大されている。もとより兵糧財貨には富んでいるし、隆々たる勢いの折も折であったから、一も二もなく、 。「淮南を捨て、河北へ来るならば、如何ようにも、後事を図ってやろう」と、それに答えた。