肉薄く色白く、細眼長髯、胆量人にこえ、その眸には、智謀はかり知れないものが見えた。 声静かに、名乗っていう。「われは沛国譙郡(安徽省・毫県)の生れで、曹操字は孟徳、小字は阿瞞、また吉利ともいう者です。すなわち漢の相国曹参より二十四代の後胤にして、大鴻臚曹崇が嫡男なり。洛陽にあっては、官騎都尉に封ぜられ、今、朝命によって、五千余騎にて馳せ来り、幸いにも、貴軍の火攻めの計に乗じて、逃ぐる賊を討ち、賊徒の首を討つことその数を知らないほどです。
年二十で、初めて洛陽の北都尉に任じられてから、数年のうちにその才幹は認められ、朝廷の少壮武官に列して、禁中紛乱、時局多事の中を、よく失脚もせず、いよいよその地歩を占めて、新旧勢力の大官中に伍し、いつのまにか若年ながら錚々たる朝臣の一員となっているところ、早くも凡物でない圭角は現れていた。 竹裏館の秘密会で、王允もいったとおり、彼の家柄は、元来名門であって、高祖覇業を立てて以来の――漢の丞相曹参が末孫だといわれている。 生れは沛国譙郡(安徽省・毫県)の産であるが、その父曹嵩は、宮内官たりし職...
「故郷――」 。 曹操は、茫とした面持で、隊長の行為を怪しみながら答えた。「故郷の譙郡に帰って、諸国の英雄に呼びかけ、義兵を挙げて再び洛陽へ攻め上り、堂々、天下の賊を討つ考えであったのだ」 。「さもこそ」 。 隊長は、彼の手をひいて、ひそかに自分の室へ請じ、酒食を供して、曹操のすがたを再拝した。
「それがしは、衛国の生れ、楽進、字は文謙と申す者ですが、願わくば、逆賊董卓を、ともに討たんと存じ、麾下に馳せ参って候」 。 と、名乗ってくる者や、 。「――自分らは沛国譙郡の人、夏侯惇、夏侯淵という兄弟の者ですが、手兵三千をつれてきました」 。 と、いう頼もしい者が現れてきたりした。 もっとも、その兄弟は、曹家がまだ譙郡にいた頃、曹家に養われて、養子となっていた者であるから、真っ先に馳せつけて来るのは当然であったが、そのほか毎日、軍簿に到着をしるす者は、枚挙にいとまがないくらいであった。
孫策が、会って名を問うと、 。「華陀」と、答えた。 沛国譙郡の生れで、字を元化という。素姓はあるが、よけいなことは云いたがらないのである。 すぐ病人を診て、 。
――なんで天下の鼠をはばかろうや」 。 云いもあえず、曹操のかたわらから馬を乗り出したその虎痴が、 。「すなわち、譙郡の許褚とはおれのこと。汝、そこを動かず、一戦するの勇気があるのか」 。 と、いった。
「名医はないか」と、遍く求めさせた。 するとここに風来の一旅医士が童子一名をつれ、小舟にのって、呉の国のほうから漂い着いた。沛国譙郡の人、華陀という医者だった。二。 江岸監視隊の一将が、華陀を連れて、関平の所へ来た。