戟(げき)とは 長柄に刃を備えた武具の総称で、槍と薙刀の性格を併せ持つ古代中国の代表的な武器。吉川英治の三国志では、かな書きで「ほこ」と振られる箇所も多く、戦場での白兵戦を象徴する凶器として活写される。たとえば典韋が両手に戟を携え...
袁遺(えんい)とは 吉川英治の三国志に登場する袁氏一族の一人で、反董卓連合の諸侯として名が挙がる人物。虎牢関の戦いでは、王匡・鮑信・喬瑁・孔融・張楊・陶謙・公孫瓚らと並ぶ一軍の主として参陣している。 生涯(活躍の要点) 反董...
北平(ほくへい)とは 後漢末から三国時代にかけての地名で、現在の河北省北部(北京市付近を含む)にあたる地域。幽州に属し、北方の異民族と接する国境地帯として重要視された。 歴史 北平郡は漢代に設置された郡で、遊牧民族と...
渤海(ぼっかい)とは 中国北方の地名で、黄海の北西部に広がる海域の名。後漢から三国志期にかけては「渤海郡」として行政区画の名称にも用いられた。現在の河北省東部・天津市周辺にあたる。 土地の歴史 渤海郡は前漢の武帝のと...
公孫瓚(こうそんさん)とは 公孫瓚は、後漢末期に幽州を根拠に勢力を築いた群雄の一人。白馬義従を率いたことで知られ、劉備とも若い頃に学友として親交を結んだ人物である。 生涯 公孫瓚は遼西出身で、若くして盧植の門下で学び...
劉虞(りゅうぐ)とは 劉虞は、後漢末期の名士で、幽州牧として知られる人物。名門の出で、清廉で温厚な人柄によって北方の民に慕われたが、群雄割拠の中で悲劇的な最期を遂げた。 生涯 劉虞は後漢宗室の一員で、若くしてその人徳...
漁陽(ぎょよう)とは 漁陽は中国の古代地名で、現在の北京市密雲区・河北省北東部にかけての地域にあたる。後漢時代には「漁陽郡」が置かれ、北方防衛の要地として知られた。 歴史的背景 戦国時代には燕国の領土であり、燕の北辺...
定州(ていしゅう)とは 定州は、中国河北省中部に位置する都市で、現在の河北省定州市にあたる。古代中国では中山国の故地であり、後漢以降は冀州の重要拠点として発展した。 歴史的背景 戦国時代には中山国の都が置かれ、その後...
一 汜水関のほうからは、たえず隠密を放って、寄手の動静をさぐらせていたが、その細作の一名が、副将の李粛へ、ある時こういう報告をしてきた。 「どうもこの頃、孫堅の陣には、元気が見えません。おかしいのは兵站部から炊煙がのぼらないこ...
一 遷都以後、日を経るに従って、長安の都は、おいおいに王城街の繁華を呈し、秩序も大いにあらたまって来た。 董卓の豪勢なることは、ここへ遷ってからも、相変らずだった。 彼は、天子を擁して、天子の後見をもって任じ、位は諸大...
一 黄河をわたり、河北の野遠く、袁紹の使いは、曹操から莫大な兵糧軍需品を、蜿蜒数百頭の馬輛に積載して帰って行った。 やがて、曹操の返書も、使者の手から、袁紹の手にとどいた。 袁紹のよろこび方は絶大なものだった。それも道...
一 かねて董承に一味して、義盟に名をつらねていた西涼の太守馬騰も、玄徳が都を脱出してしまったので、 「前途はなお遼遠――」 と見たか、本国に胡族の襲来があればと触れて、にわかに、西涼へさして帰った。 時しも建安四年...
一 幾日かをおいて、玄徳は、きょうは先日の青梅の招きのお礼に相府へ参る、車のしたくをせよと命じた。 関羽、張飛は口をそろえて、 「曹操の心根には、なにがひそんでいるか知れたものではない。才長けた奸雄の兇門へは、こっちから...
冀州(きしゅう)とは、中国の歴史上の地名であり、古代から存在する九州の一つです。三国志の舞台となる時代には、北方に位置する広大な地域を指していました。 冀州は、黄河中流から河北平原西部にかけて広がる地帯であり、現在の河北省を中心に、...
一 その後、玄徳は徐州の城へはいったが、彼の志とは異っていた。しかし事の成行き上、また四囲の情勢も、彼に従来のようなあいまいな態度や卑屈はもうゆるさなくなってきたのである。 玄徳の性格は、無理がきらいであった。何事にも無理な...
一 ――一方。 洛陽の焦土に残った諸侯たちの動静はどうかというに。 ここはまだ濛々と余燼のけむりに満ちている。 七日七夜も焼けつづけたが、なお大地は冷めなかった。 諸侯の兵は、思い思いに陣取って消火に努めて...
一 さて、その後。 ――焦土の洛陽に止まるも是非なしと、諸侯の兵も、ぞくぞく本国へ帰った。 袁紹も、兵馬をまとめて一時、河内郡(河南省・懐慶)へ移ったが、大兵を擁していることとて、立ちどころに、兵糧に窮してしまった。 ...
一 呉を興した英主孫策を失って、呉は一たん喪色の底に沈んだが、そのため却って、若い孫権を中心に輔佐の人材があつまり、国防内政ともに、いちじるしく強化された。 国策の大方針として、まず河北の袁紹とは絶縁することになった。 ...
一 いまや曹操の勢いは旭日の如きものがあった。 北は、北狄とよぶ蒙古に境し、東は、夷狄と称する熱河の山東方面に隣するまで――旧袁紹治下の全土を完全に把握してしまった。彼らしい新味ある施政と威令とは、沈澱久しかった旧態を一掃し...
一 その晩、山上の古城には、有るかぎりの燭がともされ、原始的な音楽が雲の中に聞えていた。 二夫人を迎えて張飛がなぐさめたのである。 「ここから汝南へは、山ひとこえですし、もう大船に乗った気で、ご安心くださるように」 ...
一 さて。――日も経て。 曹操はようやく父のいる郷土まで行き着いた。 そこは河南の陳留(開封の東南)と呼ぶ地方である。沃土は広く豊饒であった。南方の文化は北部の重厚とちがって進取的であり、人は敏活で機智の眼がするどく働...
一 味方の大捷に、曹操をはじめ、十八ヵ国の諸侯は本陣に雲集して、よろこびを動揺めかせていた。 そのうちに、討取った敵の首級何万を検し大坑へ葬った。 「この何万の首のうちに、一つの呂布の首がないのだけは、遺憾だな」 ...
一 ――華雄討たれたり ――華雄軍崩れたり 敗報の早馬は、洛陽をおどろかせた。李粛は、仰天して、董相国に急を告げた。董卓も、色を失っていた。 「味方は、どう崩れたのだ」 「汜水関に逃げ帰っています」 「関を...
一 時は、中平六年の夏だった。 洛陽宮のうちに、霊帝は重い病にかかられた。 帝は病の篤きを知られたか、 「何進をよべ」 と、病褥から仰せ出された。 大将軍何進は、すぐ参内した。何進はもと牛や豚を屠殺して...
一 ようやく許都に帰りついた曹操は帰還の軍隊を解くにあたって、傍らの諸将にいった。 「先頃、安象で大敵に待たれた時、見つけない一名の将が手勢百人たらずを率い、予の苦戦を援けていたが、さだめし我に仕官を望む者であろう。いずれの隊...