冒頭 襄陽城(じょうようじょう)とは、荊州の州治である襄陽に置かれた城郭都市で、漢水流域の交通と軍事を押さえる要地として三国期の攻防に関わった拠点です。荊州の劉表がこの地を根拠として勢力を保ったことが述べられます 。 概要 ...
冒頭 兵符(へいふ)とは、軍の出動や守備の交代などを命じる権限を証明するための符号で、所持者の命令が正当であることを示す軍政上の信任具です。壇上の盟約や任命儀礼では、白旄・黄鉞などの軍権を象徴する器物、印綬と並べて捧持され、総...
冒頭 荊州争奪(けいしゅうそうだつ)とは、赤壁の戦い後から関羽の敗死に至るまで、長江中流域の要地荊州をめぐって、主に蜀と呉が領有権と軍事的主導権を争った一連の外交交渉と軍事行動の総称です。 概要 荊州は魏呉蜀の境目に位置し、...
冒頭 烏林(うりん)とは、長江流域の赤壁と対をなして語られる地名で、赤壁の会戦では北岸側の戦場・陣地として扱われる土地です。現今の地理としては湖北省嘉魚県付近の南北両岸にわたる、水陸の入り組んだ地域として説明されます。 概要...
冒頭 赤壁(せきへき)とは、長江流域にある地名で、曹操軍が呉・劉備方の連合水軍に大敗した「赤壁の会戦」の戦場として知られる場所です。吉川英治『三国志』では、現今の湖北省嘉魚県付近の長江南北両岸にまたがる、水陸が入り組んだ地域と...
冒頭 襄陽(じょうよう)とは、後漢末から三国時代にかけて荊州の中枢都市として位置づけられ、漢水流域を押さえる交通と軍事の要地となった城郭都市です。襄陽を中心に古い都市があるとされ、郊外の隆中が近接する地理関係も示されます。 ...
冒頭 汝陽(じょよう)とは、後漢末から三国時代にかけて豫州(現在の河南省南部にあたる地域)に置かれた県名・地名の一つです。吉川英治『三国志』では、呉の将軍・呂蒙の出身地として「汝陽の呂蒙」と示されます。 概要 汝陽は...
冒頭 河南尹(かなんいん)とは、後漢王朝の首都洛陽周辺を管轄した河南郡の行政長官で、都城の治安・司法・租税など広い政務を担う官職です。将軍号などの武官職と併せて任じられることもあり、中央に近い要地の長官として重い権限を持ちまし...
曹仁(そうじん)とは 後漢末から三国時代にかけての武将で、魏の名将の一人。字は子孝(しこう)。曹操の従弟にあたり、勇猛さと統率力で知られる。 生涯 若い頃から曹操に従い、各地の戦いで軍功を重ねた。荊州攻略では劉備軍や...
許子将(きょししょう)とは 後漢末の人物、名は許劭(きょしょう)、字が子将。人物鑑定で名を馳せた学者・名士である。彼の従兄弟には許靖(きょせい)がいる。 生涯 許劭は汝南郡の出身。若くして人を見る目にすぐれ、人物批評...
一 蜀を破ったこと疾風迅雷だったが、退くこともまた電馳奔来の迅さであった。で、勝ち驕っている呉の大将たちは、陸遜に向って、 「せっかく白帝城へ近づきながら石の擬兵や乱石の八陣を見て、急に退いてしまったのは、一体いかなるわけです...
一 「この大機会を逸してどうしましょうぞ」 という魯粛の諫めに励まされて、周瑜もにわかにふるい起ち、 「まず、甘寧を呼べ」と令し、営中の参謀部は、俄然、活気を呈した。 「甘寧にござりますが」 「おお、来たか」 ...
一 馬超は弱い。決して強いばかりの人間ではなかった。理に弱い。情にも弱い。 李恢はなお説いた。 「玄徳は、仁義にあつく、徳は四海に及び、賢を敬い、士をよく用いる。かならず大成する人だ。こういう公明な主をえらぶに、何でうし...
一 このとき丞相府には、荊州方面から重大な情報が入っていた。 「荊州の玄徳は、いよいよ蜀に攻め入りそうです。目下、彼の地では活溌な準備が公然と行われている」 曹操はかく聞いて胸をいためた。もし玄徳が蜀に入ったら、淵の龍が...
一 荊州、襄陽、南郡三ヵ所の城を一挙に収めて、一躍、持たぬ国から持てる国へと、その面目を一新しかけてきた機運を迎えて、玄徳は、 「ここでよい気になってはならぬ――」と、大いに自分を慎んだ。 「亮先生」 「何ですか」 ...
一 敵を誘うに、漫罵愚弄して彼の怒りを駆ろうとするのは、もう兵法として古すぎる。 で、蜀軍はわざと虚陣の油断を見せたり、弱兵を前に立てたり、日々工夫して、釣りだしを策してみたが、呉は土龍のように、依然として陣地から一歩も出て...
一 八十余万と称えていた曹操の軍勢は、この一敗戦で、一夜に、三分の一以下になったという。 溺死した者、焼け死んだ者、矢にあたって斃れた者、また陸上でも、馬に踏まれ、槍に追われ、何しろ、山をなすばかりな死傷をおいて三江の要塞か...
一 ほどなく玄徳は、荊州へ引揚げた。 中漢九郡のうち、すでに四郡は彼の手に収められた。ここに玄徳の地盤はまだ狭小ながら初めて一礎石を据えたものといっていい。 魏の夏侯惇は、襄陽から追い落されて、樊城へ引籠った。 ...
一 呉は大きな宿望の一つをここに遂げた。荊州を版図に加えることは実に劉表が亡んで以来の積年の望みだった。孫権の満悦、呉軍全体の得意、思うべしである。 陸口の陸遜も、やがて祝賀をのべにこれへ来た。その折、列座の中で呂蒙は、 ...
一 周瑜は、その後も柴桑にいて瘡養生をしていたが、勅使に接して、思いがけぬ叙封の沙汰を拝すると、たちまち病も忘れて、呉侯孫権へ、次のような書簡をしたためて送った。 天子、詔を降して、いま不肖周瑜に、南郡の太守に封ずとの恩命があり...
一 一方、孫乾は油江口にある味方の陣に帰ると、すぐ玄徳に、帰りを告げて、 「いずれ周瑜が自身で答礼に参るといっておりました」と、話した。 玄徳は、孔明と顔見合わせて、 「これほどな儀礼に、周瑜が自身で答礼に来るという...
一 冀北の強国、袁紹が亡びてから今年九年目、人文すべて革まったが、秋去れば冬、冬去れば春、四季の風物だけは変らなかった。 そして今し、建安十五年の春。 鄴城(河北省)の銅雀台は、足かけ八年にわたる大工事の落成を告げてい...
一 難路へかかったため、全軍、まったく進退を失い、雪は吹き積もるばかりなので、曹操は焦だって、馬上から叱った。 「どうしたのだ、先鋒の隊は」 前隊の将士は、泣かんばかりな顔を揃えて、雪風の中から答えた。 「ゆうべの大...