一 近年、漢中(陝西省・漢中)の土民のあいだを、一種の道教が風靡していた。 五斗米教。 仮にこう称んでおこう。その宗教へ入るには、信徒になるしるしとして、米五斗を持てゆくことが掟になっているからである。 「わしの家...
一 遷都以後、日を経るに従って、長安の都は、おいおいに王城街の繁華を呈し、秩序も大いにあらたまって来た。 董卓の豪勢なることは、ここへ遷ってからも、相変らずだった。 彼は、天子を擁して、天子の後見をもって任じ、位は諸大...
一 牛渚(安徽省)は揚子江に接して後ろには山岳を負い、長江の鉄門といわれる要害の地だった。 「――孫堅の子孫策が、南下して攻めて来る!」 と、聞え渡ると、劉繇は評議をひらいて、さっそく牛渚の砦へ、兵糧何十万石を送りつけ、...
一 ――一時、この寿春を捨て、本城をほかへ遷されては。 と、いう楊大将の意見は、たとえ暫定的なものにせよ、ひどく悲観的であるが、袁術皇帝をはじめ、諸大将、誰あって、 「それは余りにも、消極策すぎはしないか」と、反対する者...
一 呉の国家は、ここ数年のあいだに実に目ざましい躍進をとげていた。 浙江一帯の沿海を持つばかりでなく、揚子江の流域と河口を扼し、気温は高く天産は豊饒で、いわゆる南方系の文化と北方系の文化との飽和によって、宛然たる呉国色をここ...
一 蜀の玄徳は、一日、やや狼狽の色を、眉にたたえながら、孔明を呼んで云った。 「先生の兄上が、蜀へ来たそうではないか」 「昨夜、客館に着いたそうです」 「まだ会わんのか」 「兄にせよ、呉の国使として参ったもの。孔明...
一 七日にわたる婚儀の盛典やら祝賀の催しに、呉宮の内外から国中まで、 「めでたい。めでたい」 と、千載万歳を謳歌している中で、独りひそかに、 「何たることだ」と、予想の逆転と、計の齟齬に、鬱憤のやりばもなく、仮病をと...
一 いま漢中は掌のうちに収めたものの、曹操が本来の意慾は、多年南方に向って旺であったことはいうまでもない。 いわんや、呉といえば、あの赤壁の恨みが勃然とわいてくるにおいてはである。 「漢中の守りは、張郃、夏侯淵の両名で事...
一 孔明の家、諸葛氏の子弟や一族は、のちに三国の蜀、呉、魏――それぞれの国にわかれて、おのおの重要な地位をしめ、また時代の一方をうごかしている関係上、ここでまず諸葛家の人々と、孔明そのものの為人を知っておくのも、決してむだではなか...
一 大河は大陸の動脈である。 支那大陸を生かしている二つの大動脈は、いうまでもなく、北方の黄河と、南方の揚子江とである。 呉は、大江の流れに沿うて、「江東の地」と称われている。 ここに、呉の長沙の太守孫堅の遺子孫...
一 渦まく水、山のような怒濤、そして岸うつ飛沫。この夜、白河の底に、溺れ死んだ人馬の数はどれ程か、その大量なこと、はかり知るべくもない。 堰を切り、流した水なので、水勢は一時的ではあった。しかしなお、余勢の激流は滔々と岸を洗...
一 眼を転じて、南方を見よう。 呉は、その後、どういう推移と発展をとげていたろうか。 ここ数年を見較べるに―― 曹操は、北方攻略という大事業をなしとげている。 玄徳のほうは、それに反して、逆境また逆境だった...
一 時すでに初更に近かった。 蔡和の首を供えて水神火神に祷り、血をそそいで軍旗を祭った後、周瑜は、 「それ、征け」と、最後の水軍に出航を下知した。 このときもう先発の第一船隊、第二船隊、第三船隊などは、舳艫をそろえ...
一 魏ではこのところ、ふたりの重臣を相次いで失った。大司馬曹仁と謀士賈詡の病死である。いずれも大きな国家的損失であった。 「呉が蜀と同盟を結びました」 折も折、侍中辛毘からこう聞かされたとき、皇帝曹丕は、 「まちがい...
一 曠の陣頭で、晴々と、太史慈に笑いかえされたので、年少な孫策は、 「よしッ今日こそ、きのうの勝負をつけてみせる」と、馬を躍らしかけた。 「待ちたまえ」と、腹心の程普は、あわてて彼の馬前に立ちふさがりながら、 「口賢い...
一 当時、中国の人士が、西羗の夷族と呼びならわしていたのは、現今の青海省地方――いわゆる欧州と東洋との大陸的境界の脊梁をなす大高原地帯――の西蔵人種と蒙古民族との混合体よりなる一王国をさしていっていたものかと考えられる。 さ...
一 孫権にとって甥の孫韶は義理ある兄の子でありまた兄の家、愈氏の相続人であった。だから彼が死罪になれば、兄の家が絶えることにもなる。 身は呉王の位置にあっても、軍律の重きことばかりは、如何ともし難いので、孫権はそんな事情まで...